Ⅶ.『緑の書』
Ⅶ.『緑の書』
下宿のアパートに帰り、あらためて今日買った本を見てみる。深緑の布張りの装丁に金色の装飾は、安アパートには不釣り合いな豪華さだ。安値で手に入れたが、きっと本当は高価な本なのだろう。それにしては、中に何も書かれていないのが不思議だ。
もう一度、中をゆっくり見てみようと思って、本を開く。記憶通り中の紙はかなり分厚くしっかりとしたもので、この紙自体もわずかに緑がかっている。
まずは、扉の大樹の絵。古本屋で最初に見たときには気づかなかったが、この扉絵もかなり暗めのダークグリーンで描かれている。授業の時にも考えたが、大樹というのはそれだけで何か神聖な意味があるような気がする。そうすると、この木もやはり何かの象徴だろうか?
そして、次のページからは白紙のはず。
「うん?」
扉絵の裏は確かに白紙だった。けれども、その次のページに目を移すと、不思議なことに何も書かれていなかったはずのページの真ん中に、大きく扉の絵が描かれていたのだ。口絵に描かれた大樹と同じく、深い暗い緑のインクで簡素だが頑丈そうな扉の絵が描かれている。
「古本屋で見たときは、見落としていた、のかな?」
そう思うことにしようとした、その時、
ページの上に描かれた扉がゆっくりと開き始めた。
扉の内側が深く透明な緑で満たされているのを見たような気がしたが、それと同時に扉の向こう側へ意識が吸い込まれていく。
「こんにちは」
本から顔を上げると、ヘルメスと名のった男が目の前に座っている。二度目のことなので、驚きは少ないが、「ああ、あれは夢や妄想ではなかったのだ」と思うと、少し体が震えた。
目の前にある本は、先ほどと同じく扉の絵が描かれているページが開いてある。しかし、テーブルは下宿の安物の座卓ではなくて、あの日のカフェと同じどっしりとした木のテーブルに代わっていた。
「またお会いできて嬉しいですよ。水無月さん。」
男はしゃべり続ける、
「一度お会いしてそれきりになってしまう人も少なくないですから、本当に僥倖です。」
「再会が叶ったということは、どうやらご自身の「扉」を手に入れられたようですね。」
ヘルメスはそう言ってこちらの反応を待っていたが、俺が何のことやら判らず怪訝な顔をしていると、ニヤリとしながら、テーブルの上に開かれている緑の本を指さした。
「その本が、「扉」、そう、貴方だけの「扉」です。本の形をしているのは、貴方という存在の在り方の反映です。スバラシイ!貴方は言葉と智慧を愛する人のようですね。」
「ところで、この本はタイトルがありませんね。水無月さん、タイトルをご存知ですか?」
「いや、知らないんです。」
「そうですか、そうですか。でも、名前がないというのは不便なものです。そうだ、貴方が名前を付けるのがよいでしょう。どんな名前にしますかな?」
しばし沈黙が流れ、
俺の口から意図せず言葉がこぼれた。
「緑の書。」