Ⅴ.古書店
Ⅴ.古書店
太宰治、安部公房、三島由紀夫、北杜夫…
かび臭い、ほこりっぽい空気の中で本の背表紙をおっていく。
今日は夕方まで授業は無いが、なんだか目も覚めてしまい、下宿にいても手持ち無沙汰だったので、ふらふらと商店街まで歩いてきた。シャッターを下ろした店が目立つさびれたアーケードを、目的もなく物色していると、小さな古本屋があった。
店内にほとんど明かりはなく、さびれた商店街の中でもとりわけ暗い店なので、気づかず通り過ぎてしまう人も多そうである。それでも、店先に一冊100円の本が並べられているので、かろうじて営業中と知ることができた。決して入りやすい雰囲気の店ではなかったが、もともとの古本を眺めるのは好きなので、意を決して店内に入った。
外観通りの暗い店内には、足元から天井まで所狭しと本が並んでいる。一部では「並んでいる」というより「積み上げられている」といった方が正確なくらいに膨大な本が平積みにされていた。
デカルト、カント、ショーペンハウエル、ニーチェ…
哲学書の棚も眺めてみるが、おっかなそうな名前が並んでいて、なかなか手に取ることもできない。だいいち、手にとっても、高価なものが多いのでそのまま戻してしまう。
フロイト、フロム、ユング、
心理学にはなんとなしに興味があったから、ユングの概説みたいなものは少し読んだことがある。イメージが豊かでファンタジックなところに魅かれたが、大学の心理学の授業ではかなり批判的な評価をされていた。
店内を廻っていくと、本の谷間の奥の方に小さなカウンターがあり、店主と思しき老人が座っている。太い縁の眼鏡をかけた、気難しそうな老人。店内には他に人影はなく、「これで商売はなりたつのか?」と思う。うずたかく積まれた本はところどころ埃がつもり、ずいぶん長く動かされていないようだ。いったい、いつから売れていないのだろうか?
ふと外を見ると、日が陰ったのか少し暗くなっている。
時計を見ると、3時を少し回ったところだ。そろそろ大学に向かった方がいいだろう。そう考えていたところに、「ザーッ」とアーケードに雨が打ちつけるような音が聞こえてきた。
傘を持っていないのに困ったなぁ…と思いながら、再び書棚に目を戻したとき、何故か一冊の本が目にとまった。棚に並ぶ本の中で、その本だけが不思議と一冊だけ浮かび上がって見える。緑地に金色で装飾が施してある背表紙に魅かれ、その本を書架から取り出した。
背表紙と同じく、表紙も深い緑の布でしっかりとした装丁がされており、これまた背表紙と同じ金色で一本の大樹が描かれている。おかしなことに、背表紙にも裏表紙にもタイトルが刻印されていない。不思議に思って本を開いてみるが、一ページ目は白紙で、内表紙の位置に表装と同じ大樹が描かれていて、その先は全くの白紙だった。やや緑がかった分厚いしっかりとした紙で、見ているとナンだか吸い込まれていく。念のためもう一度、裏表紙も見てみるが、表紙と同じ深緑の装丁に金の装飾がされているだけで、本全体を見ても一つの文字も見つけることが出来ない。
おかしな本だと思って眺めていると、気づいたら店主のいるカウンターの近くに移動していたようだ。店主の老人と目があってしまい、何となく気まずい。そこで、そういえば授業の時間が近づいていたことも思い出したし、この何も書かれていない本を買って店を出ることにした。
「すいません」とカウンターの店主に声をかけ、本を手渡す。本には800円の値札が挟まっていたので、無言で1000円札を渡し、200円を受け取る。老人の顔が、一瞬ニヤリとしたような気がした。
そそくさと店を出る。入れ違いで同い年くらいの女性が一人、店内に入っていった。
アーケードを抜けると、雨はもうやんでいた。