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ユグドラシル  作者: Re:
プロローグ
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プロローグーーⅠ.カフェ、或は喫茶店

Ⅰ.カフェ、或は喫茶店


 灰色の雨が降りしきる夕暮れ、一人古いカッフェのテーブルにかけて目の前の珈琲を見つめていた。薄暗い店内に、客は俺一人。

 クラシックな内装とどっしりした家具で統一された、落ち着いた雰囲気の店内。窓の外の雨音は激しさを増し、室内の沈黙を際立たせている。外の景色はおぼろげに窓に映る。珈琲を口に運ぶと、それは既に冷たくなっていて、この場所に来てからの時間の経過を物語る。


 なんだか真っすぐ下宿に帰る気持になれず、まだ慣れない街をフラフラと彷徨った挙句、俺は目の前に在ったこのカフェの扉を押したのだ。故郷を離れて大学に入ってから、まだたったの一月も経っていない。3月に下宿を決め、月末の引っ越し、入学式、と順当に物事は進んでいた。しかし、順当なのはそこまでだった。散り始めた桜を眺めながら授業の登録に頭を悩ませ、身体測定やら、尿検査やらX線やらの健康診断も終わって、あわただしい雑事もそろそろ一区切りがついて、ようやく下宿でゆっくり出来そうになってきた…ちょうどそんな頃に、その電話はかかってきた。

 知らない番号からの突然の着信。なんだかドキッとして、出ようかどうかためらう。しかし、ワン切りでもないようなので、出てみると…


「光院大学の健康保険センターの田中といいます。水無月悠士さんでしょうか?」。


 大学の健康センターからの電話だった。なんでも、健康診断で撮った胸部X線写真について確認したいことがあるので、近日中にセンターまで来るようにということらしい。入学早々に呼び出しを受け、なんだか少し不安を感じる。でもまぁ、確認程度のことならと軽く考えて、次の日に健康センターに行くことにした。

 次の日。春の穏やかな光の中、緑に囲まれた大学に行き、キャンパスの隅に佇む健康保険センターに向かう。受付で昨日電話をもらった旨を伝えると、待合室のベンチで看護師らしい白衣の男性から説明を受けた。

 「実は、昨日撮った写真だとはっきり判らない部分が有ったので、あらためて大きな写真を撮って再確認したいんです。時間の方大丈夫でしたら、今日これから撮らしてもらいたいんですが、いいですかね?」

ということだ。

 そういう訳で、レントゲン室に通され、上半身裸になって再度X線を撮ることに。外は暖かい日差しとはいえ、レントゲン室の中はうすら寒く、素肌に触れる撮影機器は冷たく不快に感じられた。診察室へと通されると、白髪の医者が椅子に座っており、彼の目の前にあるのは俺の胸のX線写真だ。患者用の椅子に座った俺に、医者はその白と黒の透過写真を見ながら説明を始める。

 「これが肺で、これが気管。それで、ここのところに白く映っとるものが有るんだけども、これが何だか、写真からでは判別できない。…今までに胸の病気とかしたこと有りませんか?」

 「いえ、今までにそういうのは…無いですね。小さいときに肺炎で入院したことは有ったかと思いますが…、大きな病気は無いと思います」

 「そうですか。う~ん。この写真だけではハッキリ判らないけれど、これは何か有るのかもしれないし、無いのかもしれないし、ちょっと、近所の大きな病院で…」

と医者は言う。要するに、大学のセンターの設備ではよく判らないので、大きな病院で精密な検査をするようにということのようだ。


 まったく、ついてない話だ。大学に入って早々、学生生活も始まらない内から病院に行く羽目になるとは…。

 地方から出てきてまだ一月もたたないとはいえ、慣れない都会の生活、一人暮らし。まだ一人の知り合いもいない。ただでさえ、不安のあるスタートだったのに、これじゃダブルパンチじゃないか。うららかな春の日差しの中、健康センターを後にし、大学から駅に向かう坂を下るが、周囲の風景とは裏腹に、心はやけに沈んでいく。客観的に考えたら、実はまだ何も悪いことなど起こっていないのだが、まだ自分の周りの環境の変化に順応できないでいて、些細なことでブルーな気持ちになる。俺はどうしようもなく寂しい感じがして、なんだか胸の奥底の方がギュっとするような心持がして、とぼとぼと桜並木の坂を下る。

 気が付くと足は駅とは違う方向に向かっていた。なんとなく、まだ下宿には帰りたくなかった。間借りしているアパートの一室に帰れば、一人ぼっちだ。そうしたら、気持ちはもうどうしようもなく落ち込んでしまうかもしれない。それよりは、一人で静かな場所を散歩でもして、もう少し気持ちを落ち着かせてから、家に帰ることにしたい。そう思って、足の向くままに大学周辺を散策することにした。大学は山の上にあるので近くに民家は少なく、緑が多い。少し行くと、住宅地になり、駅まで続いている。もっとずっと先まで進むと、のどかな田園風景。俺が知っている地理のレベルはこの程度だが、まぁ道に迷うこともないだろう。

 坂を下り終えて住宅地に入る。あまり新しい家は少なく、雑然としたいかにも住宅街といった感じだ。少し歩くと、小さな橋があり、下には水が流れている。大方、昔は用水路か何かだったのだろう。街中だが、意外にも水が綺麗で、両脇の石垣は所どころ苔に覆われている。何の気なしに俺は、この小川に沿って歩いていた。川面を見つめながら歩いていると、なんだか少し気持ちも落ち着いてきたようだ。そう思い足を止めて、ふと顔を上げる。そのとき、目の前に洋風なレンガ造りの建物が現れた。近づくと、がっしりした木製のドアに「営業中」のプレートが架けられていて、ドアの上には「喫茶」の文字。

 気が付くと、俺は吸い込まれるように薄暗い店内に入り、窓際の席に座って一杯五百円のコーヒーを注文していた。



 なんだか、とりとめも無く長々と回想に耽ってしまった。だが、要するに言いたいのは、俺がこの店に入ったのは初めてであり、全く偶然、そこに在ったからにすぎなかったはずだということだ。そこに、あの男が現れ、俺の日常に小さな裂け目が生じ始め、それがやがて底知れぬ深淵へと繋がっていくことになるのである。つまり、全くの偶然だったはずのものは、確かな必然であり、抗い難い運命だったのだ。世の中とは、不思議なものである。いや、むしろこれこそ世の中と言うべきか。

 だが、まずは先を急がず、順に話を進めていくことにしよう。俺は一杯のコーヒーをたのみ、時折カップに口を運びながら、ぼんやりと外を眺めていた。窓の外には先ほどの小川が流れていて、とても住宅街のど真ん中というようには見えない。

 店に入る前は、春らしい良い天気だったが、俺がぼんやりと窓の外を眺めているうちに、段々と空が灰色になっていき、気が付けば、川岸の石垣が雨に濡れ始めていた。傘を持たずに来ていた俺は、仕方なく雨が止むのを待つことにする。しかし、雨脚は急激に強くなって行き、水面を激しく波立たせる程になった。春の大気の中に降る雨は、弱まることを知らず、窓の外の景色も、もう数メートル先までしか見えない。窓ガラスを通して伝わってくるザアザアという音によって、この古風な喫茶店が雨によって周囲から切り離され、さながら吹雪の山小屋に取り残されたような孤独感。さっき落ち着いたように感じた心が、今度はどんどん深く沈み込んでいき、体からも力と温もりが消えていくようだ…。

 そんな中、どれだけ時間が経っただろうか。


 「こちら、掛けさせていただいて宜しいでしょうか?」。


 ふと気付くと、その男は私の前に立っていた。全体に黒っぽい色調の衣服で身を包んだ、なんだか陰気な男だ。空いている席は沢山あるのに、と不審に思ったが、無下に断わるわけにもいかない。無言でぎこちなく頷くと、男は椅子を引き、私のテーブルの真向かいの席に腰を下ろした。


 「水無月さんですね」。


突然名前を言われ、どぎまぎした。正直に言って、人の顔と名前を覚えるのは苦手だ。しかし、どうにか思い出そうと頭をフル回転させても、一向に思い出せない。その様子が、相手にも伝わったのだろう。


「はじめまして、あなたとは初対面になります」。


どうやら、記憶力の問題ではなかったようだ。しかし何故、俺の名前を知っているのだろう。大学に入ったものの、まだ入学式が終わってから間もないし、それに、なんとなく周りの雰囲気とのズレを感じ、あまり周囲と積極的にコミュニケーションはとっていない。そのせいで、俺の名前を知る人は学校内にもほとんどいないはずだ。


「突然のこと、申し訳なく思います」。


言いながら、胸のポケットに手を入れて、簡素な木の箱を取り出した。箱を開くと、深い青、もしくは群青色の布の包みが見える。


「まずは、これをよく見て下さい」。


明らかに胡散臭いと思いながらも、その深みのある落ち着いた声に抗うことができず、触り心地のよさそうな布生地をゆっくりと開いていく手元を見つめる。布の中から現れてきたのは、布の深い色さえも淡色に感じさせてしまうような、吸い込まれるような青い塊。まるで全く光を反射していないのではないかと思わせるほどに深い濃い青でありながら、同時に眩いばかりの存在感を放つ鮮やかな青。深い海溝を覗き込むような寒さ、果てしなく高い空を見上げたような眩暈。

 ぼんやりとした不安…。このまま見つめ続けてはいけない。何故かそんな気持ちになるが、言いようもない深い青に惹きつけられてしまう。目を離すことができない。深淵に吸い込まれていくような感覚がどんどんと強まっていき、周囲に見えている室内の様子が視界から消えていく。

もはや、深く強烈な青しか存在しない…

 遠のく意識。


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