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――昨日と同じ道を辿り、行きついた坂の上の邸宅は心なしかどんよりと重い空気に取り囲まれているようである。
摩耶の言葉通り、屋敷を取り囲む高い塀には更にそれすらも包み込むような黒い靄が覆い隠し、中に広がるはずの背の高い家屋すら見えなくなっていた。
目の前に広がる先の見えない薄闇は、優菜と言う少女の“心”そのものなのであろう――
誰も言葉で表現こそしなかったが、その思いを胸にしまいこむと誰からともなく足を踏み出した。
「お、おーっし! 俺は、あのおチビちゃんの気をそらせば良いんだよな? 良いんだよな?」
「ああそうだ。事案にならない程度に何かやれ」
一応黒い靄自体は見えているらしい寛二朗が気合を入れ直し、自身の両頬を威勢よく叩く。だが、その時間すら惜しんでいた佐助が木刀で背中をつついた。
極めて不躾な行動ではあるが、そもそも寛二朗はそんな些細な事を気にする性格では無いのだろう……お返しと言わんばかりに佐助の頭を豪快に撫でまわすと、ボサボサ頭になった佐助に背を向けゆっくりと歩き出したのだった。
――佐助の想像通り、寛二朗の大きな体は容易く黒い壁をすり抜け、やがてその姿は薄闇の向こうにおぼろげと相成る。
「……猿喰の子、体に異変は無いか?」
「おー。壁通り抜けたら、後はなんも変わらないぜ! お前らも早く来いよ!」
「…………いや、行けぬから主に頼んだのだが」
「おお」
薄靄の向こうから聞こえる素っ頓狂な相槌……手の出しようがないというやり場のない苛立ちに飲みこまれかけていた佐助を宥めながら摩耶が言葉を紡ぐと、寛二朗の足音は少しずつ遠ざかっていった。
―――
「おおおおーい! おチビちゃん! でーておいでーや!」
寛二朗の目の前に広がっていたのは、曇り空の下にいるかのようなどんよりと薄暗く、肌寒ささえ覚えるほどの冷えた光景だった。
だが、元来の深く考え込まない性分がそうさせるのか、彼の足取りは普段と変わらない。
かくれんぼの鬼にでもなったかのように庭の隅から隅へと視線を絶えず動かし歩きまわった。
「ここか……?」
ふと、寛二朗の目に留まったのは――屋敷の裏にひっそりと隠れるようにして佇むプレハブの物置の姿だ。
大人を丸ごと一人くらい包み隠せそうなほどの背丈を誇る物置の赤い屋根には、土埃と雨、それらが交互に積み重なったようなまだらの跡が残る。
引き戸には鍵を取り付ける穴さえ見当たらず、その扱われようは“雑”としか言いようがないものであった。
「おーい……ってうわあ!」
鍵がかかっていないと判断するや躊躇なく引き戸を開け放った寛二朗であったが……カビ臭い匂いと舞いあがる埃によって視界がぼやけ、ただ足元に転がり落ちた軽やかで柔らかい感覚に驚き声を上げる。
「大丈夫かい!?」
「お、おおー! 足元に何か落ちてきてよ……お?」
外から聞こえた声に少し安堵したのか、落ち着きを取り戻した寛二朗が足元に視線を落とすと――そこには人間の子供くらいの大きさはあろうか……茶色のぬいぐるみが落ちているようであった。
「ボロボロだけど、犬のぬいぐるみか?」
舞いあがった埃が重力に身を任せ地に落ちついた頃。
足元に転がっていたぬいぐるみに視線を落としていた寛二朗は“ある事”に気付き、首を傾げる。
「……なんで、腹に穴が開いてるんだ?」
誰にでもなく呟くと、足元の大きなぬいぐるみを抱える。
――経年に由来する劣化と思しき縫い目のほつれは全体的に見受けられる。だが、決してそれだけの理由とは思えない、人為的に付けられた傷のようなものが腹部には目立っていた。
「――それ、欲しいの? だったらあげるよ」
ぬいぐるみの腹部から姿を覗かせていた薄汚れた綿を眺めていた寛二朗は、いつの間にかすぐ隣に立っていたあどけない少女の声に反応を返すことも出来ず、舞い上がった埃で肺を満たす。
異物の気配に驚いた体が咄嗟に咳込む形で拒否反応を示す傍ら――汚れた空気に気付いていない様子の少女・優菜はこともなげに首をかしげていた。
「そいつ、優菜の“ライタくん”のニセモノなの。ライタくんのふりして、優菜に話しかけてきたの。でも、優菜は一目でライタくんじゃないって分かったから、喋れないように“心臓”を潰して閉じ込めてたんだよ。だから持っていっていいよ」
優菜は抱きしめたままのぬいぐるみ――“ライタくん”と呼ぶ小ぶりな犬のぬいぐるみの頭を撫でる。
言葉にはしないものの、優しげに頭を撫でるその眼差しからは“こちらが本物である”と言う意思がありありと伝わっていた。
少女の言葉は相変わらずの不穏さを隠さないままではある、だが昨日の邂逅ほどの昂りは無いようで寛二朗はひとまず胸を撫で下ろした。
「せ、せっかくだけど、俺もいらないかなー! 話しは何となく分かったぜ、そう言うことならまたここの中に閉じ込めておけば良いのか?」
あまり嘘が得意ではない寛二朗だが、なけなしの演技力を総動員させながら声を上ずらせると、手に取っていた大きな“ニセモノ”を物置に押し込む。
先程は気付かなかったが、開け放された物置の奥には他にも腹を切り裂かれたような後の残る犬のぬいぐるみが無造作に積み上げられているようであった。
「……そっか、そうだよねえ。“ニセモノ”なんて誰も欲しがらないよね」
「お、おう……」
物置の引き戸を優菜が力ずくで閉めると、錆びた音と共にカビの匂いが舞いあがった。
不気味なほど落ちつき払っている少女の振舞い、あまり動きを見せない瞳孔から感じとれる事、それは……“昨日の怒りを水に流した”と言うよりは“忘れてしまっている”のではないか?
不気味なほどに人間らしさを失った少女を前に寛二朗は心の奥が冷えるような感覚に苛まれていた。




