9-1
怒涛の一日が過ぎ去ったその翌朝――
世間は祝日である。行き交う人もまばらな大通りを桃色の丸いフォルムが印象的な軽自動車で駆け抜け、クララはいつものように職場――來葉堂近くの駐車場へ辿りついた。
スキンケアと基礎化粧だけを施していつもより早めに出勤していたクララであったが……來葉堂の前には既に先客の影が見え、声をあげた。
「……あら! 今日は一段と早いわね……」
まだ明りも灯らない薄暗い入口の前には、既に身支度を整えた佐助の姿。
この常連客(本人は認めていない)が開店前に店の前で待っている事は珍しい事では無い。だが普段より早い到着であったがゆえに、クララは首を傾げつつ声を掛ける。
「どうせ他の者はぐうたらと寝過ごすに決まっておるから、僕だけでもすぐに動けるように準備をしたまでだ」
目も合わせないままにため息を落とした佐助は、言い終わらない内に数段だけの階段を登りきる。
“早く開けろ”と言わんばかりの行動にも慣れ切ってしまっていたクララは一笑に伏すと持ち歩いている鍵を扉に差し込んだのだった。
最早指定席と化している窓際の椅子に当然の振舞いで陣取る佐助に沸かしたばかりのお茶を差し入れると、クララは朝食の準備の傍ら開店の準備を急いだ。
――時計の針が刻む小さな音以外何も聞こえてこない早朝の静寂、研ぎ澄まされた佐助の耳は、階上が微かに軋む音を捉えて天井を見上げた。
やがて軋む音はゆっくりと場所を移動し、扉の向こう……階段を下ってくる足音へと代わり、ゆっくりと開く扉を見つめると、佐助は息をついたのだった。
「……もう起きて大丈夫なのか、小僧」
「ご迷わくをおかけしました……体の方も、マリンも元気です」
起きてきたのはソラだ。
普段と変わらない小さな男の子の姿をしたソラが丁寧に頭を下げると、佐助は呆れたようにため息を落とす。“不機嫌である”と汲み取った様子で、恐る恐る視線だけを動かし佐助の方を見やる。だがソラが想像した表情とは少し違い、佐助は頭を掻くと腕を組んでいた。
「だから、小さいくせに気を回すな、と幾度も言っておろうが。……お主は巻き込まれただけだろう。……そんな心配そうな顔をせずとも、今日中には小僧の父が抱え込んでおった問題も、あの道具のチビ女とも……吾妻とも決着をつける。小僧は宿題でもやっておれば良い」
ソラの言葉を受け付ける事も無く、佐助はクララの淹れたお茶で喉を潤す。
決して優しい表情とは言い難い、眉間にしわを寄せたままの怪訝な眼差しではあったが……不器用な気遣いを感じたソラは顔を綻ばせるともう一度頭を下げたのだった。
「――随分と優しくなったな?」
二人のやりとりの間、佐助が気付かない内に起床していた様子で、和輝は背伸びをしながらカウンター席に腰かけた。
「……灯之崎がどこぞで油を売り歩いておる時に色々あったんだ」
「そう」
微かに賑わい始めた店内に気付いた様子で、クララもまた開店準備を中断し先に朝食の支度に掛かり、ソラもまた手伝いを名乗り出る。
厨房からは味噌汁の心安らぐ香りが漂い始めていた。
「――摩耶様の為に働くことこそが“僕の生きる理由”だと思っていたのだが」
「うん?」
厨房からはソラの声と、歌うような相槌を紡ぐクララの野太い声が流れてくる。
クララが歌い出す時は気分が良い時と作業が完了しかかっている頃合いである印であるとかねてから知っていた和輝が自身の朝食を取りに行こうと席を立つと、引きとめるようなタイミングで佐助がぽつりとつぶやく。……だが和輝が座り直すと、佐助はそれを一瞥しそっぽを向いた。
「使うべき“道具”の為に命を賭し、道具に使われて生きる……矛盾であろうか」
疑問のようでいて、どこかで答えを持っているかのように佐助はつぶやく。たった一言、ぽつりと宙に投げ出さすとその視線を落とした。
――自身が桔子の鏡を通してみた風景……あの事件の日の一部始終を、佐助もまた摩耶から伝え聞いたのかもしれない。
ちょうど同じタイミングでクララが運んできた朝食のお膳を受け取っていた和輝はそれを察すると箸を手に取った。
「佐助がそうしたいならそれでも良いんじゃない? ……現実にだって“紙の上の人”に自分の生涯捧げてる人だっているんだし」
「それと一緒にするな」
「……違った?」
“似たようなものだと思うんだけど”
和輝は喉まで出かかった言葉を抑え込むと、胃に注ぎ込むかのようにお茶を飲む。
以前にも、ほんの些細なひと言で佐助と喧嘩になり、クララの制裁を受けた事があったなと一年ほど前の事を思い出したのだ。
「それではまるで僕が寂しいヤツみたいではないか。良いか? 僕は孤独などと言った甘えた感情を持った事は一度も無い」
「はあ……」
「……友達など、いらない。必要性も無い。摩耶様さえいれば他には何も要らない。……そのはず、だが」
制裁を受けるかもしれない未来を予知し、和輝は“そうなってしまう前に少しでも食事を進めておこう”と焼き魚をほぐしていると、佐助がまたぽつりとつぶやく。
持ち上げたご飯茶わんの縁から盗み見ると、不気味なほど静かに目を伏せたままの佐助の姿が見えた。
「要らない、と思っていたが……両親は僕の事を、守ってくれていたと知った。火事の日、本当の母に見限られた僕を父は守ってくれていたんだ。……だが、吾妻には……彼奴は本当に孤独なのであろう」
「……」
「本来であれば……“道具”に選ばれなければ、僕は死んでいたはず。いや、それだけでは無く、絶望の中で最後を迎えたやもしれぬ。……僕には吾妻の気持ちを理解することは出来ぬであろう、だが……」
ふと、佐助が伏せていた瞼を開けると先の言葉を見失ったかのように口を噤んだ。
和輝にとっても、佐助がまさか“摩耶”以外の存在の事を考えていたとは思ってもいなかった事で、半分ほどに減ったご飯茶わんを膳に戻すとお茶で口を潤した。




