8-7
――俺が願った事、その代償がこれなのか?
確かに世界を憎んだ。どうなっても良いと考えていた。だけど、百花だけは別だった。
「おい腕輪! 話しが違う! この人だけは……」
自由の利かない腕を揺さぶりながら声を荒げると、澄んだ音と共に一瞬――辺りを宵闇が包み込む。
暗闇に目を慣らすと、目の前には先程の白装束の子供が気だるげに立っていた。
「……“この人”と言われても私には区別など付かぬ。……お主が消し去りたいと願った“子供の命”は幾分か与えたのだから、これは代償としてもらうのみだ」
「待てよ。……百花を生き返らせてよ、あんた何でも出来るだろ? 人の命くらい――」
「それは叶わぬ」
子供は、事もなげに凛とした声を紡ぐと首を傾げた。まるで善悪を知らないかのように。
首の鈴を鳴らすと、子供は退屈しているようで辺りを見渡しながらまたどこかへ行こうとしていた。その細い背中に声を投げると、熱風に白いおかっぱ頭をたなびかせ振り向き……そして赤い瞳を怪訝に細めながら首を横に振ったのだった。
「なんで!? あれだけ色々叶えてくれただろ? なのに」
「私はまだ不十分だ。力を取り戻しきっておらぬのだ。“与える”事はできても、“時を遡る”事はがまだ難しい……故に“既に絶えた命を元に戻す”と言う願いを、今は叶える事が出来ぬ」
「そんな……」
温かく柔らかかったはずの百花の体は氷のように冷たくゴム人形のように堅くなっていく。
胸に重く圧し掛かる感触は、俺の心に暗い影を落とした。
「最初からそのつもりで……!」
「最初からも何も、お主が望んだことだ。“一番欲しいものを手に入れたい”……晴れてその者は生老病死の苦しみから逃れた。そしてお主はその安らかなる亡骸を抱けたのだから願いは叶っておるではないか」
「そうじゃない! 俺は……」
重力に逆らった格好で蝋人形のような堅さになってしまった百花の体を抱きしめる。
ふわふわと揺れ動く子犬のような髪の毛だけが彼女が生きていた証となってしまったようで、開くことのない瞼を見ないままに百花の顔を胸に埋めさせた。
「俺は……俺が欲しかったのは……!」
百花を抱きたかった?
――違う。
百花の子供が憎かったのか?
それも違う――
自分の中の“誰か”が悪意に満ちた問いかけを投げる。
その選択肢はどれもしっくりこない答えばかりで、俺は何度も首を振った。
やがて辿りついたのは――初めて会ったあの日の、百花の笑顔だった。
それは御機嫌とりでも様子見の為でもない、まっすぐで温かく優しい顔。
「俺は、百花に……笑っていて欲しかった、だけだったんだ……!」
――こんなにすぐ近くにいるのに、この腕の中に百花がいるのに宇宙の果てのように遠く思えた。
“骨董品が好きだ”と楽しそうにしていた彼女の笑顔を壊したのは、家庭を顧みない旦那でもなければ手のかかる子供でもなく……俺だったんだ。
道具の力だけでなく“自分の力”を過信してしまっていたんだと気付いた時、ふとその存在を思い出させるように赤ん坊の小さな指先が俺の服を握りしめた。
それは温かくて柔らかい“罪の証”――
俺が撒いた無責任な“感情”が種子となり、大地に根付いてしまった木のような存在だ。
「――良く分からぬが、つまりお主の気は済んだと言う解釈で良いのか」
傍らで耳を傾けていた腕輪の子は“言葉の意味が理解できない”という風に首を傾げる。
「ああ、もう良いよ。……一番大事だったものはもう戻らない」
「ふむ? ……そうか」
それ以上腕輪の子は言葉を紡ごうとはしなかった。気持ちを汲み取った、と言うよりは興味が失せたのだろう。
腑に落ちない様子で表情を煙らせると微かに鈴を鳴らし、踵を返した。
――息絶えていた百花は勿論のことだが、その手に眠る“罪の証”の命もそう長くは無いだろうと感じていた。見たところ本当に生まれたばかりのようで、目の周りは猿みたいにしわしわだし苦しげに開かれた口には歯も生えていない。
ならばせめて、百花とその胸に蹲ったままの“罪の証”だけでも、燃え尽きてしまわぬようにと……。
百花の亡骸を背に背負い直そうとした時。
目も開いていない赤子が両の手でしっかりと俺の服を掴んでいた事に気がついた。
赤子は、いつの間にか周囲の熱気で四肢の筋肉が溶けた百花の亡骸から袂を分かち、必死に俺にしがみついていたんだ。
「……お前」
生まれて初めて“誰かに必要とされた”気がした。
おもちゃみたいに小さな爪が守る指先からは確かに“生きたい”って意思が感じられて、気が付いたら頭が茹だったような感覚に支配され、視界が涙で歪んでいった。
「――“腕輪”! ……最後に一つだけ!」
――子供がどうやったら出来るか、くらい分かっている。俺も子供じゃない。
それと同時にどうやったら“生まずに済む”のか、と言う事も理解していた。
“産まない”と言う選択肢だってあったはずなのに、それでも百花が――
――親権を渡し、全てを失ってでも産み、育てようとしていた。
「この子を……この、炎の海の中に居続けてしまったこの子に、障害が残らないようにしてやってくれないか? ……まだ生きているんだから、“生命力を与える”くらい出来るだろ、頼む……!」
百花が俺の事をどう思い、どんな想いでこの子を産んだのか。
もう誰にも分からないし、想像して良い身分でもないだろう。
だけど――その“結果”だけでも受け止めようと思った。
「……相応の代償はもらうぞ」
「何だって良い」
腕輪の子は赤い瞳を細めると、音も無く俺の目の前に歩み寄った。
遠くから救助隊の声が聞こえるばかりでそれ以外の音は消え失せていた。
「ならば、お主の“体”を少し頂こうか――」
腕輪の子が真っ白な腕を持ち上げ俺の額に指を触れさせると、冷たい感触の後すぐに焦げる程の熱い感覚が全身を焦がした。
血が沸騰しているかのように体中の全てが滾り、感覚が鋭敏になっているのか赤子を抱く温もりすら劇物のようだった。
それでも、この子は守ろうと思えていた。
この命はくれてやる。せめてこの子が健康に、俺が奪ってしまった百花の人生の分まで生きてくれたら――
「――“色”を頂いた。……ではな、春宮八雲。お主との日々は中々楽しかったぞ」
……気がついたときには目の前にいたはずの腕輪の子は音も無く姿を消し去っていた。




