8-6
見た目よりも華奢だった男の子は棒きれのように吹き飛び、炎の燻る焼けた床へと転がり落ちて声にならない悲鳴をあげる。
加減せずに蹴り飛ばしたからだろうか、男の子は呼吸もままならない様子でのたうちまわると、柱にぶつかり顔面をも焼きかけていた。
「はあ……ったく、泣くしか能が無い生き物はこれだから」
ふと、辺りに腐った肉でも焼いているかのような青臭い匂いが立ち込め始めた事に気づいた俺はその場を離れたい気持ちに駆られた。
それは、罪悪感などと言った感情がそうさせたのではない。
――“今後焼肉が楽しめなくなる”など、呑気なことを考えていた俺は男の子を無視して踵を返したんだ。
だが――
「……あなたには、大事な人、居ないんですか……?」
「あ?」
振り返ると、泣き喚いていたはずの男の子は立ち上がっていた。
さっき打ち付けた時に焼いたんだろう。顔の右半分が爛れ始め、どす黒く腫れあがっていたにもかかわらず。
「チビ、顔ヤバい事になってるぞ」
「俺はどうでも良い。あなたに聞いているんです」
「……大事な人、ねえ」
“大事な人”――そんなもの、分かりきっていた。
薄っぺらい友情も肉親でさえも霞んでしまう程の輝きで光を灯す星のような存在だ。
「俺にとってお母さんは大事な人だった! だけど、もう戻らない……! あなたには、大事な人を失う気持ちが分からないんですか?」
「……」
男の子はやけどを免れた左目で俺を睨む。
まだ幼稚園程度だろう、だがその目には確かな憎しみが宿されたように思えた。
「俺の半分以下しか生きてない癖に、知ったような事言うな! ……言われなくても、俺だって……」
本当は心の奥底で分かっていたのかもしれない。彼女が星のように手に届かないものだと。
だけど、認める事もまた心の奥で拒んでいたんだ。
まだ小さいくせに、御立派に分かったような言葉を連ねてくる子供が憎らしく思えた。
半ば八つ当たりのような稚拙な感情だったのかもしれない……頭に血がのぼった俺は衝動的に腕輪を振りかざした。
「うるっさいな! だから、そんなに大事なら一緒にあっちにでも行け――」
天高く振りかざした手の中にはいつの間にか、ずしりと鉄のような重厚な感触が熱を奪っていた。
“これで命を奪え”――腕輪の声が聞こえた気がした俺は、杖の形を成した“それ”を思いのままに振り下ろしかけた……。
その時。あの懐かしい声が。二度と聞くことも出来ないと諦めていた声が聞こえたのだった。
「――八雲君! 駄目!」
すんでのところで留まることの出来た俺は、杖を子供の頭上から引き上げたが……
とうとう緊張の糸が切れた様子で男の子は気を失い、再び焼けた床へと体を投げ出してしまった。
……とはいえ、別に思い入れのある子供でもない訳だし気にも留めずに俺は懐かしい声がした方へと振り返る。
その時、目に飛び込んできたのはおおよそ非現実的な光景だった。
一面に“赤”が広がる終焉のような世界に――百花が立っていたのだ。
彼女の腕の中には生まれたばかりの目も開かないような小さな子供の姿も見えるが、あの煩わしい“悪魔”はいないようである。
まるで、地獄に聖母が降り立ったかのような不釣り合いな光景を前に、俺は言葉も無く彼女を見つめていた。
「――百花、さん……なんで」
依然として状況が飲みこめないままに首をかしげるばかりの俺をまっすぐに見つめ、百花はうっすらと笑みを浮かべる。
「何で……? なんでだろう。今日は“ここに来ないといけない”……そんな気がしてね。まだ、こういう人が多い場所はこの子には早いのに病院抜けて来ちゃった」
歩み寄る百花の腕の中で今にも泣き出しそうに目を開けた赤ん坊はどことなく俺に似ている気がして、息を飲む。
いつの間にか杖は跡かたも無く消え去っていたけれど、そんな事はどうでも良くって……目の前の尊くもどこか危うい女性から目が離せなくなっていた。
「八雲君、私ね……別れたの。もう子供じゃないから、分かるね? ……親権は先方に、私の有責扱いでね」
どこか他人事のような口ぶりで紡ぐ百花の言葉を要約すると、彼女と元旦那との間に生まれた子――あの煩わしかった“悪魔”は離婚に際し旦那側に引き取られたらしい。
有責、つまり百花側の問題で婚姻関係が継続しがたいような、実子を育てる権利も与えられないという事態になっていた。
「ああこの子? 名前は、決まっているの。地には百の花が咲き誇る。その上には八重の雲。そしてその更に上に……」
直接語りはしなかったが、百花側の有責……それはつまり今、彼女の腕の中にいる赤子が――元旦那に親権が渡っていない様子の生まれたばかりの子供が関係しているのだろうと容易に察することが出来た。
「その子、父親って」
確証は無い。だが……他に考えようもない問い掛けを百花に投げかけた時。
吹き抜けの天井部分で小さな爆発音が響いた。
「……危ない!」
天井で辛うじてその身をつりさげていたらしい蛍光灯が弾け、俺たちのいる地上へと降り注ぐ。
百花は子供と俺を守るようにして抱いた赤子ごとその身を預けたのだった。
「……百花さん? ……ねえ、百花さん、百花!?」
まるで狙い澄ましたかのように百花の背中目掛けてガラス片が降り注ぐ。
炎の赤とはまた違う“赤”が地面に滴り落ち、それと同時に百花は膝から崩れ落ちた。
つい先程、見知らぬ子供が這いつくばり、顔の半分を焼き熱気に苦しみもがいたばかりだ。同じ苦痛を味あわせてはいけないととっさに抱き上げると、彼女は最後の力を振り絞るように赤子を俺の腕に預け、言葉も無く目を伏せてしまったのだった。




