8-5
――百花の中で果て、昂ぶる心が落ち着いた頃には子供は泣き疲れて眠っていた。
艶めかしい声を上げて泣き続ける百花は、まるで壊れたおもちゃのように白濁した腹部を上下させるばかり。
「百花さん……俺は……!」
――今思い出しても俺は最低な事をしたと思う。
俺は……ようやく冷静さを取り戻した俺は、若く未熟な頭なりに事の重大さに気が付いてしまい、百花を車中に置き去りに逃げ去ってしまったんだ。
――その日から、また百花は俺の前から姿を消した。
子供が保育園を卒業する年齢に達した訳では無かったはずだけど、恐らくは迎えの時間をずらしたりして俺から逃げていたんだと思う。
つくづく浅はかな事である。本来であれば訴えられても仕方ないほどの事だ。彼女を傷付けたんだと、今では分かる事なのにこの頃の俺は“百花に逢えない寂しさ”の事しか頭に無かった。
もう百花に逢えないのか。
あの子供さえいなければ旦那と別れて俺の元へ来てくれるんじゃないか。
そんな淡い期待ばかりが胸を刺した。
――自らが交流を拒んできたがゆえに、誰も俺を咎めることも出来なかった。……既に正気の沙汰ではなかった。
幸か不幸か、俺には時間があった。
同い年の奴らが受験勉強に追われていても、俺には困らない程度の学力がある。
金銭に困窮しバイトに明け暮れる奴らとは違い遺産があるし、身の回りの事は数を減らした家政婦が何も聞かずともやってくれる。
気を使う相手もいない、話しかけて思考を阻害する厄介ものもいない……
俺はただただ持て余す時間を潰す為にテレビをつけたまま腕輪に言葉を投げていた。
「なあ、どうやったら俺の欲しいものは手に入る?」
「足りないんだ」
「一番欲しいものだけが手に入らない」
「他のすべてを失ったとしても、俺は百花が――」
「――この、役立たず」
その時。今までで一番激しく鈴が鳴った。
耳がおかしくなりそうなほどにけたたましく脳を揺さぶり、腕輪が心なしか熱を持ったように感じられて、火照る一肌のように生々しい感覚が腕を握り締めたかと思え……瞬間的に音はなり止んだ。
その時、付いたままのテレビからはあの商業施設の映像が流れていた。
「行けってこと?」
声を持たない腕輪が俺を導いた気がして――気がつけば俺は走りだしていた。
商業施設の中は小さい子供で溢れていた。ヒーローショーでもあってたんだろう。揃いも揃ってダサいお面をかぶっては猿みたいな声を上げて走っている。
正義の味方、聖人ぶった偽善者が小さい頃から嫌いだった。
“どうして、顔も知らないような薄い関わりの人間達の為に命を賭すのか?”
それが幼心にただただ疑問で、問い掛けたところで“それがヒーローだ”とか頭の悪い回答しか返ってこない。
ダサい張り紙を眺めていると反吐が出そうなほどの苛立ちが胸を支配した。
隣に百花がいてくれたら、こんな苛立ちを抱くことも無かったんだろうか?
――楽しそうに連れ立って歩く恋人、夫婦……全てが目障りに思えた。
俺はこんなに苦しい思いをしているのになんでこいつらはそんなに幸せそうな顔してるんだって。
――その時。
腕輪の鈴が鳴り響き、俺の視界を一瞬の暗闇が包み込んだ。
明るいはずの店内は夜が訪れたかのように闇に包まれ、耳ざわりだった雑踏の声も聞こえない、世界から切り離されたかのような静寂の中――いつの間にか目の前には小さくて華奢な白髪頭の子供が立っていた。
暗闇の中で炎のように赤く光る瞳、中学生くらいに見えるが、男なのか女なのかも分からない死装束を纏ったおおよそ非日常的なその子供の首には見覚えのある鈴が光る。
――言葉も交わさなかったが、俺には即座にその正体が分かった。
「ありがとう、お主のお陰で私は力を取り戻した」
子供は赤い目を細めると、手を差し出す。
真っ白くて血が通っていなさそうな程透き通った、枝のように細い腕だった。
「春宮八雲、共に参ろう……私にはまだお前の“心”が必要だ」
一切の迷いも生じなかった俺が白い手の平に自らの手を重ねると、腕輪がより一層澄んだ音で館内に鳴り響いた。
「では、始めようか――」
闇が晴れると同時に、切り離された世界がパズルのピースのようにはめ込まれ、気がつけばあの子供の姿も見えなくなっていた。
静寂を切り裂いた世界にはまるで鈴の音に対抗するかのように警報が館内にこだまし、炎は瞬く間に燃え広がっている。
子供達の悲鳴が降り注ぎ、その親と思われる大人の泣き声は心地良く耳を打った。
衣服が燃え、プラスチックが爛れ鉄がシュウシュウと音を立てる。
目に映るもの、鼻をつく匂い、耳から入る阿鼻叫喚の声――五感の全てに訴えかける地獄のような光景が俺の心を癒した。
炎に包まれた建屋内を人々は駆けまわり、皆が一様に“生”へと抗う。
だが、不思議な事に腕輪が守ってくれているのか俺の体は麻痺したように熱を感じず、息苦しさも覚えなかった。さながら俺は世界に終焉をもたらす使者にでもなった気分だった。
大人たちは殆どが逃げおおせたようだったが、中には逃げ遅れたものもいた。
あれほど耳触りで仕方なかった餓鬼の鳴き声でさえも、この時ばかりは耳馴染みの良い合唱のように聞こえ自然と鼻歌を重ねる。
この世で一番欲しかったものはもう手に入らない。
だけど、それでも良いとさえ思えた。
断末魔の声も聞こえなくなり始めた頃、俺はフードコートだった辺りに辿りつく。三階まで大きく吹き抜けになった広々としたフロアには中央にステージが設けられていた。
ここでつい先程までしまりの悪いヒーローショーが催されていたのだろう。既に人気も無い舞台上には舞台装置の残骸だけが煙を吐いていた。
外国の街のように飾り付けられていたモニュメントもそのほとんどが崩れ落ちた中を散策していた時だった。
――小さい手が俺の服を掴んだ。
「あの……! 俺のお母さんが、まだあっちにいるんです! 俺一人じゃどうにも出来なくって……助けて下さい!」
服の裾を引くと、小さい男の子は縋るような目で俺を見上げていた。
まだ幼稚園くらいだったのかもしれない。たどたどしくも懸命に丁寧な言葉を選びながら、男の子は俺をどこかへ誘おうと抗った。
「母親?」
男の子が指差す方向にはモニュメントの下敷きになった女性の下半身が見える。
柱状のモニュメントを腹部で受け止めてしまったんだろう。辺りには赤黒い血溜まりと垂れ流された糞尿の匂い、吐瀉物の鼻を突く匂いが漂っていた。
遠目に見ていても既に動きもしない“それ”が既に絶命している事など分かりきった事だったが――子供故の物分かりの悪さがそうさせたんだろうか。男の子は同じ言葉を繰り返しながらしつこく俺の服を引っ張った。
「お願いです、俺の唯一の……」
「うるさいなあ!! そんなに大事なら一緒に逝けよ! “あれ”はもう死んでるっつの!」
男の子が縋るように俺の手を掴んだ瞬間。
苛立ちが頂点に達した俺は手を振り払うとボールのように彼の腹を蹴り飛ばしていた。




