8-3
――続木を強引に家に帰らせた後、俺は百花を引き留めて話を聞いた。
小さな子がいるから、と百花は渋ったが……“父親が入院した”と言う大義名分はここで役目を果たし、“今度お見舞いにも行く”と言う約束にまでこじつけた。
「――そっか、春宮さん……もう長く無いのね……良くして頂いたのに、中途半端な形で申し訳ないわ……」
彼女がぱたりと連絡を立ってしまった経緯、それは妊娠をきっかけに退職しそのまま結婚、そして育児に追われて今に至ったという事らしい。
女が妊娠する、と言うことが何を意味するのか……“何をしたのか”と言う事を知らない年でもない。
やせ細ったにも関わらず相変わらず可憐なままの百花が“誰かを受け入れた”と言う現実が――目に見える“愛の形”として確かに彼女の横でよだれを垂らしている。
“天使”だなんて使い古された表現があるけれど、俺にとっては真逆のもの。
目の前で俺と百花の会話を幾度となく遮る、知能も持たない獣のような生き物は“悪魔”にしか見えなかった。
「八雲君ごめんね。私、一人でこの子を面倒見ているから……少し疲れてしまって」
「……旦那さんは、何もしてくれないの?」
“忙しい人だから”――百花は寂しげに笑う。
その笑顔は俺が好きだった“無邪気な笑顔”では無かった。
――百花と別れ、一人帰路に立った俺はどうも心が落ち着かなくて……日が傾くのも構わず黄昏時の町を歩いていた。
百花の笑顔が好きだった。無邪気に……楽しそうに笑う顔が。
だけど、今の彼女はそうじゃない。まるで使い古された雑巾みたいな顔で笑顔を作っている。
誰がそうさせたのか?
今思い返せば、彼女を大事に出来ていない旦那を憎んで然るべきだが……当時の俺は、目の前で阻害している“悪魔”の方へと憎悪を募らせていった。
――あてもなく歩き続けた俺が辿りついたのは久世神社だった。
実家にほど近いこの場所は祭りの時期以外閑散としていた。小さい頃から学校や習い事をサボった時に、境内の裏手に隠れてやり過ごすのが常套手段だった。
続木に追いかけ回されていた為にしばらく来ていなかった訳だが……境内は相変わらずの静けさで、少しだけ心が癒された感覚に浸っていた。
……だが、心落ち着くときもほんのわずかだった。
静かだった境内の奥、社務所から勘に障るわめき声が聞こえたかと思えば、見知った神主に追いかけられながら小さな男の子が目の前を駆け抜け、そして転んだ。
しばらく来ない内に若い神主が身を固めて子供の父親になったのだろう。百花が手を煩わせていた子と同じくらいの男の子を慣れない手つきであやしていたのだった。
その光景に、何とも言えない苛立ちを覚えた。
どいつもこいつも変わらない。親がどれだけ機嫌を取ってやっても、媚び諂っても似たような顔した“悪魔”達は喚きたいだけ喚く。
言葉も通じない。こちらの要望は耳にも入れずに自分の欲望だけを吐き散らす獣のようだ。癪に障る姿を目に入れたくない一心で、境内の奥へと俺は逃げた。
普段は決して立ち入らない境内の隅へと逃げると、不思議と苛立つ心が温かい何かに包まれるかのように癒された。
まるで最初からここに来ることが必然であったかのような居心地の良さに誘われて先へ進むと、手入れが届いていない林の中に小さな祠を見つけた。
時の流れに取り残されたかのように苔生した、供物も何もないただの祠だ。
人を拒むかのように佇むそこは、神主でさえも管理をしていないのだろうと見受けられた。
誰の目に触れない場所で時を過ごす祠の姿に、俺はまるで“自分が来るのを待っていたのではないか”という自惚れにも似た錯覚を脳裏に過らせ……気が付いたらその扉に結ばれていた紐を千切りこじ開けてしまったのだった。
「……腕輪?」
祠の中には鈍い銀色の光を放つ腕輪が二つ祀られていた。
まるで夫婦のように正反対で、恋人のように寄り添って見えた。
必然のように感じてしまっていた俺は何気なしに片方を手に取り右腕に通す。
“これは俺に与えられたものなんだ”と言う認識になりきってしまっていた為、罪悪感なんてものは頭になかった。
事実、腕輪は不思議なほど腕に馴染み、付けている事を忘れるほどだった。
――その日から俺の周りでは不思議な事象が起こり始めたのだった。
―――
「――八雲、あんまり気を落とすなよ? その、食事くらいなら、俺の家で食ってっても良いんだからな」
「……別に心配してもらわずとも、うち家政婦いるし」
「強がり言わなくても良いんだからな」
「どこまで好意的なんだあんた」
高校二年の頃に父親は他界した。
だけど、葬儀の手配は本家筋がやったようで面倒な事は何もなかったし、遺産もあり金銭面の心労もなかった為、俺にはどこか他人事のように感じられていた。
それどころか葬儀に参列してくれた喪服姿の百花は今までとはまた違う魅力に溢れていて、“得をした”と心の中でガッツポーズをしていたくらいだ。
――そう、父親の死でさえも……この世の全ての“不幸”が、何もかもが些細な事に思えるほどにこの頃の俺は“希望”に満ち溢れていた。




