12-1
――幸せになって欲しいと、心から願っていた。
この感情に名前なんてなかった。
ただ守りたい、いや“守るべき”だと幼い心に誓っただけだった――
夏の気配が訪れ始めたある休日。
期末テストが終わり、夏休みももうすぐ。至って平和な日々が続いている。だが、來葉堂には険悪な空気が漂っていた。
――それもそのはず。店内は蒸し暑く、外にいた方がマシとさえ思える惨状だったのだ。
「あっつ~い! クララ溶けちゃう……」
「“兄さんが”って言うより、“化粧が”溶けてるよね。今まさに“ホワイトデビル”にふさわしい顔してるよ」
「まってヤダヤダ! 女子力~!? メイク直してくるから、和輝店番お願いなのだぞ!」
「いや、もうメイク落せよ……って聞こえてないか」
元々年季の入った店に備え付けられていたエアコンが、この夏の容赦ない日差しに負けを期してしまった。そう、ただ生温い風をカラカラと薄気味の悪い音に乗せて巡回させるだけの箱になり果てていたのだ。
「店番、て言ってもさ、あの水瀬すら来ないんだよ。地獄だよ、今の來葉堂は……」
心頭滅却しても火は熱い。熱いものは熱い。じっとしていても全身の汗腺がフル稼働している感覚が付きまとう。和輝は自分以外誰もいない店内でため息を落とすと、動かないエアコンを見上げ呟いた。
ふと、そんな時――入り口の扉が開き、ベルが涼しげな音を鳴らした。
「水瀬? まだエアコン直ってないよ、地獄へようこそ――」
“どうせ見なれた顔が冷やかしにきたのだろう”と、和輝は入口を振り返る事もしないままに言葉を返す。
「……本当に暑いわね。エアコンが付いていないからかしら?」
だが、返ってきた声は初めて耳にする大人の女の声。開け放された扉の外からは生温い風に乗せて噎せ返るような甘い香りが鼻を掠めた。完全に油断していた和輝が慌てて姿勢を正し振り返ると――そこには一人の見知らぬ女性が立っていた。
腰まではあろうか、パーマがかった茶色の髪の毛は果実のような香りをまとい風に揺れる。
和輝の幼馴染である湊のような“可愛さ”とはまた違う、どこか大人の色気を孕ませた美しく整った顔は、目を逸らすことさえ忘れそうなほどであった。
「――ぼーっとしてるけど、大丈夫? 熱中症とかじゃ……」
「え、あ、いや、ごめんなさい! あの、今エアコン故障中でして……俺は大丈夫です」
「それなら良かったわ。……あ、私ったら名前も名乗っていなかったわ。失礼、私は伊月 沙羅と申します」
沙羅は艶やかな口元に笑みをたたえると、慣れた手つきで鞄から名刺を取り出す。
“伊月 沙羅”と書かれた名刺の左上には彼女の勤め先であろうか。金色でデザインされた“ティム・コーポレーション”の文字が光っていた。
「伊月さん……えっと、クラ……店主はもうじき戻りますので、暑いの大丈夫なら少々お待ち頂けたらと思いますが」
「そうなの? それなら少し待たせてもらおうかしら。……この、壁に飾ってある骨董品は店主さんの趣味でいらっしゃるのよね?」
「あ、ああ……はい。あ、骨とう品の事なら、多分部屋でエ……調べ物をしている人の方が詳しいと思うのですぐに呼んできます」
沙羅をソファー席に案内し軽く会釈をすると、和輝は踵を返し八雲の居室に向かおうとした。その時――不意に、細い指先が和輝の指に絡まった。
驚きで声も出ない和輝は動揺も隠せないまま沙羅の方を向き直る。
“何か失礼な事をしただろうか”と生来のマイナス思考が頭を駆け巡り、無意識に謝罪の言葉を口にする和輝の手を引くと、沙羅はそのまま隣に座らせたのだった。
女性特有の甘い香りをまとった指先が和輝の両頬を包み、その美しく通った鼻先が触れあってしまいそうなほどに沙羅は豊潤な体を寄せる。
ぼんやりしていてリアクションが薄い和輝であっても年頃の男の子である。
本能の抑制が利かなくなりそうな恐怖を押しのけるように沙羅の肩を掴むと体を引き離したのだった。
「ごめんなさい。君の目が私の“恋人”に良く似てたから、つい……」
「こ、恋人がいるならそう言う事やっちゃ駄目です」
「あら、恋人がいなかったら良いのね。……なんてね、冗談よ。誰にでもやるわけないわよ? 君は特別みたい……学校でモテるでしょ?」
「珍獣限定なら」
「そう? 君の目は、私みたいな寂しがりやのワガママも弱さも丸ごと吸い込んでしまいそうな、優しい目をしてるわ」
「……と、とにかく師匠、じゃなくて店主呼んできます!」
――逃げるようにしてその場を離れた和輝は形骸化したノックで扉を叩くと返事も待たずに扉を開ける。
蒸し暑い來葉堂の店内とは打って変わって八雲の部屋は効き過ぎな程の冷気が充満している。相も変わらず乱雑に散らかった部屋の片隅に据えられたパソコンのモニター画面には最早見慣れ始めた霰も無い姿の美少女が涙目でこちらを見ているようであった。
「お、和輝。ちょうど良かった。そこらへん足元に攻略情報印刷した紙落ちてない? この子すぐ泣いちゃって話が進まないんだ」
あられの無い姿で声を乱す二次元の美少女と、三次元の柔らかな感触――匂いがリンクしてしまいそうである。二つの虚像が脳内で都合よく組み替えられそうな錯覚に陥った和輝は、思わず目の前の虚像モニターのコードを強引に引き抜いた。
「は? ちょっ、和輝!? なんで!? 涙声だけしか聞こえない暗闇プレイをご所望なの!?」
「うるさい変態引きニート暗闇に帰れ!!」
「ちょ待ってそこまで言う!? ちょっとお母さーん!? お子さんが反抗期なんですけど!!」
「母はここにいません! 師匠、お客様がいらしてるんですから!」
滅多に外出もせず、交友関係も持たない八雲にとって自分を訪ねてくる来客など皆無に等しい。
訝しげに赤い瞳を細める八雲の背中を強引に押し居室から追い出すと、和輝はため息をついたのだった。




