二章 第十五話
「悪いけど、俺は飲まない」
流斗の言葉から出てきたのは悪魔の誘惑を断るものだった。
そのことにフリッカは軽く衝撃を受けた。
「どうして! 私の血を飲めば、もしかしたら回復するかもしれないのに……そりゃ、あの人たちのようになるのは嫌でしょうけど。それでも、死ぬことに比べたら!」
フリッカの叫びと対照的に、流斗は頭がどんどん冴えていくような感覚を覚える。
それは体に必要な血液を失っているからなのか、もしくは自分の今の状態にある種の諦めが出てきたからなのかは誰にもわからなかった。
しかし、一つだけ確かなことがある。
それは、人間性を失ってまで力を求める心が流斗にはないことだ。
「確かに、この状況を切り抜けるには君の血が必要なんだろうけど……悪いな。もう人間をヤメるのは嫌なんだ」
流斗の脳裏にかつての自分の姿が浮かび上がる。
七生の側にいた頃、言われるがままに他者の命を搾取してきた自分。
アレは人の営みから大きく外れた行為だ。
異世界に来てまで同じ外道に再び堕ちたくはなかった。
「お兄さんに何があったのかはわからないけど、それは命を投げ打ってでも守りたいものなの?」
「ああ、こればっかりは譲れない。せっかくの申し出、断らせてもらうけど。大丈夫、この状況くらいは切り抜けてみせるさ!」
強い言葉とともに、流斗は全身の筋肉に急激な負荷を与える。
相手は未だ夢の中にいる。
前後不覚な暴れように、鋭い殺意は感じられない。
叩くなら今この瞬間をおいて他にない。逃せば、再びこちらに圧倒的な暴力が襲って来るだろう。
「フリッカ、少し後ろに下がっていてくれ。すぐにケリをつけてくる」
痛む腹部に流斗は顔をしかめるが、それでも体を止めるわけにはいかなかった。
踏み出す右足が地面に着くか否かの刹那。
追っ付けていた左足を推進力にして、再度右足での踏み込みを可能にする。
それは、一種の移動法。
一瞬の隙に相手との間合いを詰める必殺の技。
七生に教わったヒトを殺す業。
重要なのは相手の息の根を止める一撃ではなく、相手の意識外からの一撃を可能にする場所取り。
彼らの本来の得物があれば、それはまさに人知の及ばぬ領域外の技に昇華されたことだろう。
「命までは取らない。動きを、意識を失わせれば……!」
「――!」
言葉にならない唸り声が男から発せられる。
それに呼応して流斗の身体の周りに歪に捻れた空間が多数発生する。
「お兄さん!」
フリッカの叫びが流斗の背後から届く。
素人目にもわかる凶悪な捻じれは、そこから必殺の一撃が射出されることを感じさせる。
不可視の鎖が槍のように流斗の体を貫かんと狙いを定めている。
「逃げ場なし。いや――お前は見失う」
腹部に致命傷に至る一撃を受けて、セーブしていた力が解放されたのか。
流斗はかつての、七生の側にいたときの感性を取り戻していた。
正気を失っているグスタフの獣の如き咆哮が路地裏に響く。
「――ッシ」
口から漏れ出た息が流斗の口から聞こえた瞬間、フリッカは彼の姿が消えたように見えた。
直後、数刻前までいた場所の空気が悲鳴を上げる。
「?」
白く、ドロリと濁った目のグスタフに疑問の表情が浮かび上がる。
確かに、確かに近くにきた何者かに狙いを定めて鎖を射出した筈だ。
自分が守るべきあのヒトの命を奪いに来た悪魔を己の力で討ち滅ぼした筈だった。
しかし、その力は何もない空を裂いただけで空振りに終わる。
そして、そうなった理由を幻想に囚われたグスタフに教えてくれる者はいない。
「だから、言っただろ? お前は見失うって」
声がしたのは。
いや、知覚できたのは、グスタフの正面に佇む流斗の姿だった。
「ナ、ゼ……」
まだ正気は取り戻してはいないだろう。最も、フリッカの血を摂取してしまった以上、正気に戻ることはないだろうが、絞り出すように出した疑問はグスタフの本能から出た言葉だった。
絶対不可避の攻撃。相手はそれを軽々と避けたのだから。
それに対して、流斗の表情は変わらない。
本当に?
フリッカは怪物の前に立つ流斗の姿が、どこか常識外の存在に成ってしまったかのような錯覚を覚えた。
違う。
これは前にも感じた。そう、あの日。あの夜。あの女から感じた、あのどうしようもない異形感に似ていた。
「安心しろ、命までは取らねぇよ」
刃のような闘気がグスタフの意識を刈り取る。
流斗の円月状に振るった手刀が、呆然とする男の首筋に当たって体を崩れさせた。
その呆気ない終わりに、フリッカは暫く動くことが出来なかった。
只者ではないということは薄々感じ取っていた。
今まで逃亡の生活をしてきたフリッカは、その道程で様々な刺客を見てきている。
その経験が、相手の力量をある程度推し量れるレベルまでの眼力を身につけるまでに至らしめた。
『そこそこやる』
これが最初にフリッカが下した流斗の評価である。
底が見えないとは思ったが、この世界で生きる人間が他者に侮られないように実力を隠す愚行を犯すとは思えない。
あるとすれば、頭の狂った戦士か意地の悪い魔法使いくらいのものだろう。
そう考えたフリッカは、こうして目の当たりにするまで、流斗の実力がこの世界では異質であることに気付かなかった。
「どうして、トドメを刺さないの……?」
しかし、ようやく出せた言葉はフリッカ自身予想だにしなかったものだった。
ヨゼフを殺された恨みは彼女の思っているものよりも大きかったようだ。
流斗に血を飲ませようとしたときもそうだったが、心の中ではヨゼフを殺した二人に復讐したい気持ちが渦巻いている。
「……」
フリッカの疑問に流斗は反応を示さない。
倒れたグスタフの投げ出された腕の先にあるものを、ただ見つめるばかりだ。
「……俺には、ないものを掴んでいたように見えたが……気のせいだったか」
その独白は誰に向けて呟かれたものだろうか。
流斗の瞳に映る、白く、節くれだった神経質そうな指は、何か大切なものを掴んでいるかのごとく固く握られている。
戦いの最中、うわ言のように呼ばれていた彼女は彼にとって、一体どんな関係の人間なのだろうか。
流斗は、まるで憑き物が落ちたかのように静かに眠る男を羨ましそうに眺め続ける。
しかし、流し続けた命が体が耐えられる限界を超えてしまった。
「――!」
フリッカの叫び声が遠くに聞こえる。
流斗は、気づけば空を仰ぎ見ていた。
遠く、見覚えのない空。
その空は不思議と心地の良い柔らかな光を大地に降り注いでいる。
「ああ、昔もこんな、星が煌く空を見たことがあったな……」
そう、あの時もこんな見覚えのある空を見上げたものだ。
流斗の心には、かつて七生と稽古をしていた夜の光景が広がっていた。
薄れゆく意識に反比例して、忌まわしくも懐かしい思い出が鮮明に浮かび上がっていく。
「結局……異世界に来ても、こんな終わりなの、か……」
だが、結果的に女の子を一人救うことが出来たことは僥倖だ。
自身が捨てた戦いの果てとはいえ、それが良い結果に繋がるとは七生でさえも考えが及ばないことだろう。
今までの人生にはなかった満足感が心に広がる。
しかし、心の片隅に不安が残っているのも事実。
この世界には、あの彼女《七生》がいるらしい。
彼女がここで何を為すのか。
かつて、日本という国が滅びるきっかけを生み出した彼女が再び同じ過ちを犯さないか。
流斗は若干の心残りを残したまま、限界をとうに超えてしまった意識の手綱を無念にも放してしまった。




