二章 第二話
『流斗は何になりたいの?』
凛々しくも清涼感のある声が耳に届く。
月明かりに照らされた背の高い草原で流斗は一人の女性と向かい合っている。
飲み込まれそうな漆黒の長髪、どこにあの怪力が存在しているのか疑うようなスラリとした体型、女性にしては色気のないシャツにジーンズという出てだちが彼女のズボラな性格を表していた。
光を背にしているため顔の表情が読み取れないが、この時の彼女は機嫌が良かった。
『人が聞いているんだから、すぐ答えなきゃ』
答えようにも、当時の流斗に将来のビジョンなんてものは持ち合わせていなかった。
今を生き抜くだけで精一杯の彼は、とにかく彼女をどうやって倒せばいいのか思考を張り巡らせていた。
『……はぁ、つまんない男に育ったね。一体誰の教育を受けたらそうなっちゃうんだろう、てアタシか』
一人でケタケタと笑いながら、彼女は流斗に近づいていく。
一見無防備に見えるが、彼女の場合、予備動作なしでコンクリートを砕く蹴りを放つことができるため油断ならない。
流斗はどんな攻撃がきても捌けるように身構えるが、その姿に彼女は心底馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
嗜虐心がムクムクと鎌首をもたげてくるのがわかる。彼女は愛すべき流斗を壊したくて、愛したくてたまらなくなる。
『何度教えたらわかるの? 相手の行動を待っているだけじゃ、いいようにされるだけだって、さ』
流斗と彼女の間には十メートルはあったはずだが、気が付けば流斗は空を仰いでいた。
何が起こったかわからず、思考が混乱の渦に飲まれている流斗に彼女はさらに追い打ちをかける。
足払いによって浮いている流斗のガラ空きの腹に縦に一閃。ハンマーのように打ち下ろされた拳は彼の鍛え抜かれた腹筋をものともせず内蔵に深刻な衝撃を与えた。
柔らかな草が彼を気休め程度に受け止めてくれるが、彼女の放った一撃の風圧で周囲に円形の痕が出来上がる。
『せめて、気概の一つは見せてもらいたいなぁ』
彼女の言葉に触発されてか、流斗は自分の顔の近くにある彼女の脚を右手で掴み、身体のバネを利用して起き上がると同時に勢いよく引っ張った。
『お?』
彼女のバランスが崩れるのを見計らって、流斗は力を込めた左拳を彼女の頭に叩き込む。
鈍い音が空気を伝わって響く。
容赦のない一撃は相手の意識を刈り取った――はずだった。
『で、なんでそこで追撃に移らないかなぁ』
だらんと垂れた頭を勢いよく流斗の方に向ける。
いまだに右手は彼女の脚を掴んでいるのが災いした。彼女は器用に頭を振った勢いで身体を浮かせると、掴まれている脚を軸に流斗を挟むように残った右脚を曲げて彼を抱き寄せる。
拘束するように彼女は流斗を挟んでいる両脚に力を込めると、痛みに苦しむ声が漏れ出た。
『あはっ、いい声。綺麗なお姉さんに股を広げて挟まれるなんて流斗は幸せ者だなぁ。このままイカせちゃおうか?』
興奮しているのか艶の混じった声で流斗を挑発する。
ギリギリと締め上げられる痛みに流斗の身体は悲鳴を上げるが、彼女はそれに満足するように唇をペロリと舐める。
真っ赤な舌がぬらりと彼女の唇を濡らすのを見た流斗はそこから視線が離せなくなってしまう。
その視線に彼女は気づいているようで、わざとらしく自身の股間を流斗の腹部に押し付けて密着を高める。
その体勢がどれだけ続いただろうか。もしかしたら数秒にしか満たないものだったのかもしれないが、流斗は耐え切れなくなって身体を仰向けに倒した。
これで、彼女にのしかかられるカタチになってしまった。
『あーあ、流斗はエッチなんだぁ。そんなにお姉さんの下になりたいのかね』
獲物を見つけた肉食獣のように、犬歯を覗かせて嗤う。乗られたことで、脳を痺れさせるような彼女の匂いが鼻を犯し、頭がくらくらする。
『ねぇ……さっきも聞いたけどさ。流斗は何者になりたいの?』
声が遠くに聞こえる。
再び月明かりの影になって、彼女の表情が読めなくなる。
流斗は見えない彼女の顔をぼんやりと眺めながら、自分について考えてみた。
自分は何者なのだろう。親の顔も知らず、何の繋がりもない彼女に育てられ、今もこうしてヒトを倒すための技を教えられている。
そんな自分が何かになれるのだろうか。
「俺は……」
何かを言おうとするが、言葉が空気となって出るだけだった。
徐々に意識が薄れていく。
彼女はただ、流斗を見下ろすだけで何も言わなくなった。
ただ、彼女から一滴の雫がこぼれ落ちたところで、流斗の意識は完全に失った。
次に目を覚ましたとき、流斗の目に映ったのは見知らぬ天井だった。
別に命を張った戦いはしていないだけに、今のシチュエーションは非常に恥ずかしく感じる。
「どこだ、ここ……」
流斗は周囲を見回すが、自身が横たわっているベッド以外には簡素な机と椅子があるだけで殺風景な部屋だった。
簡単なボディチェックをして自分の状態を確認する。怪我をしているわけではないようだが、何か酷いものを見た気がする。
「確か学校に行こうとして……ああ、そうだ。異世界に来たんだっけかな。まさか、今までのは夢でしたってオチはないよな」
もしそうだとしたら、いよいよ本格的に自分は病んでいるのかもしれない、とため息をついた。
見たとこ自分の部屋ではないし、このベッドの質感から察するに、現代のものではないようだ。
「と、いうことは、あのあと気を失ったのか」
流斗は金髪のボーイッシュな少女との出逢いを思い出した。
彼女が運んでくれたのだろうか。
流斗は彼女の身体を思い返してみたが、とても流斗を運べるようには見えなかった。
「いやいや、世の中にはアレのようなイレギュラーがいるんだ。わからないぞ」
過去の記憶を引っ張り出して、流斗は自分を育ててくれた鬼を引き合いに出す。
思い出すだけでも恐ろしい、と流斗は身体を竦める。
彼女と過ごした日々は流斗の身体にありとあらゆるものが刷り込まれていた。
それは良くも悪くも、今の流斗を構成している大切な要素だ。
「何してるかな、あのヒト……」
流斗は恐れてはいるが、大切な彼女のことに想いを馳せて再び目を閉じた。
願わくは夜刀のように、異世界で会うことはありませんように、と。




