69 蘆名の嫡子
楽しんで頂ければ幸いです。
1571年 二階堂氏 ~須賀川城~
娘のあい姫が嫁いだ蘆名から使者があった。
盛興殿とあい姫に嫡子が生まれたとの嬉しい知らせだった。
婚姻から数年が経っており正直心配していた。
盛興殿が酒を飲み過ぎているのではないかと影の者まで派遣したほどだ。
実際は約束のとおり酒は控えめに嗜んでいた様で健康体だったから余計に気がかりだったのだ。
あい姫に子供が出来なければ側室を迎えねばならないとの話も蘆名では出ていたはずだ。
しかし、盛興殿とあい姫は大変仲も良く、父である盛氏殿も自身の事もあり側室には積極的でなかった。
そんな中でのあい姫の男子出産は蘆名と二階堂に大きな喜びを運んだのだ。
「あなた、あい姫に男の子が授かって良かったですね」
「ああ、まつも心配していたから嬉しいであろう」
俺達夫婦は蘆名の嫡子の誕生を心から祝福した。
「何でもお名前は三郎丸と名付けたとか?」
「ふむ、祖父の盛氏殿の幼名が四郎丸だったからその辺りから名付けたのだろう」
あい姫は産後の肥立ちも良く、母子共に健康状態は良好らしい。
出産前には寝具や石鹸などを蘆名に送り、蘆名共々領内の寺社へ安産祈願をするよう通達したからその甲斐があったと言うものだ。
この子が無事に育てば家督相続に伊達や佐竹の介入を阻止できるので非常に重要な存在となる。
周りから見ればより陸奥における二階堂の影響力が強くなったと見られるかもしれない。
俺としては蘆名へ影響力を強める気持ちは無いが、姻族関係が強くなれば自然と協力を求められる事も多くなるだろう。
盛義にはその辺りのバランス感覚についても良く伝えておかなければならないな。
そろそろ家督相続もしなければならない時期になってきた。
俺が健康で目が届くうちにスムーズな政権移行をしたい。
話は変わるが、蘆名と聞いて一人の僧の名が頭に浮かんだ。
ことの始めは信長殿がとうとう比叡山の焼き討ちを行ったとの知らせを受けた事だった。
これを聞いてやっぱりやっちまったかと思ったものだが、上洛の際に見た比叡山の僧兵による行いを見聞きすればさもあらんとの気持ちもある。
二階堂の領内で同じ事をすれば俺も由緒ある寺であろうがぶっ潰しただろうな。
話を戻すが、比叡山が焼き討ちされたことで天台座主の覚恕法親王が甲斐へ亡命して、仏法の再興を武田信玄殿に懇願した。
その時に多くの僧が甲斐へ赴いたのだが、その中に蘆名の一門に連なる僧がいたのだ。
名を『随風』と言う。俺が良く知るのは後年の名である『天海』の方だ。
武田の遠江・三河侵攻の動きを把握するために甲斐で情報収集をしていたのだが、そこにこの名前が出てきたのだ。
既に随風の名は甲斐で大きく知れ渡っているそうで、信玄殿も帰依していると聞いている。
このため武田と繋がりにある蘆名でもその名前が高まっているらしい。
そのうちに随風殿を会津へ招致する動きも出るかもしれない。
会津の地は蘆名が長年の間に多くの仏教寺院を建立している地域だから関心は強いだろう。
何かの資料で随風殿が会津へ逗留していた時期があったと見た記憶がある。
放浪壁がある随風殿なので、まさかそのまま会津に居ついている事は無いだろうがな。
将来は家康殿の懐刀になる予定だからぜひ繋がりだけは作っておきたい。
そのうちに会う事はかなうだろうか・・・。
読んで頂きありがとうございます。
(注)この物語はパラレルワールドでありフィクションです。史実じゃなくて設定です。
いやー、社長の無茶ぶりが酷くて現場が大混乱です。早く落ち着くといいのですが・・・。