53 同盟の行方
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1563年春 北条氏 ~小田原城~
北条と蘆名、二階堂の同盟が纏まったと氏政から後見している儂に使いの者が知らせに参った。
二階堂からは一昨年上杉らに小田原を攻められた後にも使いを貰っていたものじゃ。
あの時北条は上杉に包囲され城に籠っていたが、上杉も飢饉で領内の備蓄が少なかったため乱取りも満足に行かなかったのであろう。
兵の食糧が不足したために上杉の包囲も短期間で終わる事となったのじゃ。
しかし、領内の状況は酷い事となった。村の備蓄は上手く隠した物を除いて根こそぎ上杉らに奪われたために民が多く困窮したのじゃ。
各城の備蓄の一部を分け与えても全く足りない状況に、氏政達も皆頭を抱えておった。
そこへ来たのが二階堂輝行殿からの使いであった。
港を良く利用する岩城を通じて、食糧の援助を申し出てくれたのじゃ。
何でも輝行殿は祖父の早雲様を同じく幕府に仕えた氏として親近感を持ち、大変尊敬しているとの事じゃった。
儂の事も良く知っている様で、河越での戦について褒め称える以外にも、早雲様と同じように民を慈しむ領主であり、勝手に師と仰いでいると言う。
早雲様と比べられるのは恐れ多いが、北条への敬意が言葉の端々から感じられる書簡じゃった。
その縁からも些少ではあるが食料を北条へ援助したいとの申し入れに、儂と氏政は即座に受け入れを決断した。
使者はすぐさま領国へ戻り、その返事を聞いた輝行殿は嫡子の行盛殿を名代にして援助の食料と共に北条へ送って参った。
行盛殿の話では、二階堂、蘆名は元より伊達や石川、岩城にも声を掛けて食料を集めてくれたようじゃ。
米は生産量が少ないため持参した物も多くは無かったが、蕎麦などの穀物を確保しており、かなりの量を援助してくれた。
これを領民に分け与える事が出来たため餓死者は予想よりもかなり減った事じゃろう。
おかげで北条でも米の増産ばかりでなく、不作の時の作物も作らねばならぬと思ったものじゃ。
行盛殿によれば輝行殿も本当は自分が訪れて儂や氏政へに挨拶したいと残念がっていたのだとか。
当主が遠方の領国へ参るのは簡単ではないから輝行殿も諦めていたようじゃ。
そのうち輝行殿も儂の様に隠居すれば楽になるかものう。
蘆名氏盛殿も儂の様に既に家督を譲られたと聞いておるから輝行殿が解放されるのも遠い先ではあるまい。
名代の行盛殿も立派な若者じゃったから家督相続の不安もなさそうじゃ。
伊達殿の正室がいなければ北条から娘をやってもよかったと思ったほどじゃからな。
まあ、その辺りは蘆名殿も同じであろうから無理は出来まい。
陸奥において二階堂は平和の要石と噂されておって騒ぎは起こせんからのう。
もちろん此度の援助に輝行殿の下心が無いとは思っておらん。
二階堂と蘆名は既に戦った佐竹からの再侵攻を懸念しておると聞いておる。
これと結ぶ上杉に対抗するために北条と同盟を結びたいのが本筋じゃ。
北条とてこのまま上杉にやられたままでは済まされんから、武蔵、上野などの支配を取り戻さねばならぬ。
さて、蘆名殿には上杉への牽制をどれ程期待できるかのう。
1563年晩春 武田氏 ~躑躅ヶ崎館~
先ほど蘆名盛氏殿の使者である猪苗代殿と同盟の書簡を交わした。
これも忌々し上杉に対抗するためじゃ。
上杉とは何度も北信を得るために川中島で戦っているが、先の戦では武田の将に多くの損失があった。
頼みにしていた副将の信繁や勘助などの将を失ったのじゃ。
思い返すも口惜しい戦じゃったが元には戻れん。
これ以上北信にこだわるのは愚策なのではないかと儂も思えてきおった。
北信を占領してもそれに値する利があるとは到底思えんのじゃ。
こうなれば上杉は抑えるだけで良い。
そこで盛氏殿や氏康殿へ上杉への牽制を頼めば戦うにしても有利に事を運べよう。
蘆名は会津を支配した上、仙道へ進出して二階堂や田村を臣従させている要じゃから十分頼みになる。
この間も臣従させた者共を率いて佐竹の侵攻を跳ね返したと聞いておる。
此度の同盟ではついでに二階堂とも盟約を結んだがこちらはおまけじゃ。
これで上野への侵攻に少しは力を注げるじゃろう。