49 生と死と(地図あり)
楽しんでいただければ幸いです。
1561年春 二階堂氏 ~須賀川城~
二階堂に慶事があった。行盛と阿南姫に子供が生まれた。男の子だ。
昨年は佐竹との戦があり行盛も初陣を飾った。
その指揮ぶりを副将として随伴した行有も褒めていた。
何でも戦局を変える指揮をして連合軍を勝利に導いたらしい。
本人は謙遜して「行有殿と同じ事を考えて実行しただけです」と言っていたが、実際に戦場へ出た者達の評価も高い様だ。
蘆名盛氏殿からもお褒めの書状を頂き、「伊達よりも先にうちの娘を嫁がせたかった」との記載すらあった。
そこまで評価されると俺としても誇らしいものだ。
ただし、行有の話では盛氏殿の嫡男である盛興殿も目覚ましい活躍をしたと聞いている。
その辺りは盛氏殿も認めており、14歳と少し早いものの家督を盛興殿に譲る決心をしたとの事だ。
盛氏殿は俺と同年代なので老け込む歳では無いし、当分は後見人と言う名で蘆名の指揮を執るのだろう。
話を戻すが行盛が嫡男を授かった事で二階堂の政権は更に盤石となった。
二代続けて伊達から正室を迎えたため繋がりも強く、交流も活発だから遠い親戚の様な間柄だ。
行盛が次世代でもこの様な関係を続けられれば、チート武将の政宗にも滅ぼされないのではないだろうか。
いやいや、史実と同じ様な政宗が出現すればそんなに甘い話じゃないか。
こいつは親戚関係をどんどん攻め滅ぼしていった実績があるからなあ。
更には父の輝宗を謀殺した疑いさえあるしな。
そう言えば、行盛の長男は史実で蘆名へ人質に取られたんだっけ。
今の状況を考えればそんな事は起こらないから安心だけどな。
最終的には盛興殿が若くして亡くなった為にその優秀さを買われて蘆名の養子となっていたはずだ。
うちの孫を養子に出さない代わりに盛興殿が早死にしないよう少しは手を貸すべきだろう。
蘆名の安定はうちの商売に影響が大きいからな。
酒におぼれて身体を壊したと言う説があるから盛氏殿にも注意するよう伝えておこう。
つまみにジャーキー(タンパク質摂取)やイカの燻製(タウリン摂取)などを送るのもいいかな。
押さえつけるだけでは反発することもあるから改善へ上手く誘導する必要がある。
灘の職人を(裏から)招いて作っている清酒を贈って舌を肥えさせてみようか。
こんな事を考えられるのも皆の力で陸奥国が平和だからだ。
本当ならば蘆名や田村、結城などと争って領地を削り取られていたはずだ。
そして、こんな平和な時代を作るために多くの尽力いただいた父晴行の俺は会いに行く事にした。
「父上、お体の様子はいかがですか?」
「おう、輝行か。今日はいつもより良い感じじゃ」
昨年は行盛の戦での活躍を聞いた爺様二人が「さすがに儂らの孫じゃ!」と大いに盛り上がっていた。
若い弟子である孫の活躍を自分の事以上に喜んでいたのだ。
しかし、父は冬を越える辺りから体調を崩し、ここ一月ほどは寝たり起きたりを繰り返している。
「そうですか、早く元気になって行盛の子供を見てやってください」
「そうじゃぞ晴行殿、儂らのひ孫じゃから可愛いはずじゃ。儂だけ先に会うのも気が引けるから早う良くなってくれんと困るぞ」
父の見舞いには稙宗様も同席していた。相棒が心配なのだろう。
「心配を掛けてすまんのう稙宗殿。早く良くなってひ孫を見に行かねばの」
俺が作った羽根布団の上で父はそう答えた。
見た目は以前より痩せた様子が一目で分かり、とても健康な状態とは見えない。
俺が須賀川城で進めた生活環境改善計画のおかげか、父は史実よりもかなり長生きしてくれた。
この存在がどれほど俺を救ってきたか分からない。
中途半端な知識を使って領内を改革しようとしたが、この時に父の後押しが無ければ殆どは頓挫していただろう。
父は俺の稙宗様の言葉で少し元気を取り戻した様に見えた。
その後も行盛や行有など多くの者が見舞いに来たが、その症状は一進一退を繰り返していた。
そしてこの一か月後、二階堂晴行は多くの人に惜しまれながら帰らぬ人となった。享年70歳。
葬儀は二階堂の菩提寺、曹洞宗長禄寺で盛大に執り行われ、その業績を称えるかの様に内外から沢山の者達が訪れて父晴行を見送ったのだった。
読んでいただきありがとうございます。