15 松山城
楽しんでいただければ幸いです。
1537年初夏 二階堂氏 ~須賀川城~
「お待たせしました父上。松山城より使者が参ったと伺いましたが」
「照行、蘆名氏の長沼城へ密かに兵が集まっている」
「やはり狙いは松山城でしょうか」
「十中八九間違いないであろうな」
「それでは印地隊の一部を松山城へ入れましょう」
「そうしてくれ。だだし、お前はここにおれ。万が一があってはならん」
「畏まりました。行有に伝令を出させます」
とうとう蘆名氏の松山城攻めが始まるようだ。
準備してきたとはいえ不安が無いわけではない。
史実でも落とされていなかったはずだから、あくまでも様子見程度の攻撃だろう。
だからと言ってこちらに被害が出ないかどうかは、戦ってみなくては分からないことだ。
城には既に印地用に加工した石も運び込んである。
兵糧も十分用意してあるので長期間籠城することも可能だ。
これを乗り切ればここ数年は二階堂氏が係わる戦争イベントも無かったはずだ。
その期間に領内の改革をして力を付けておきたいし、同時に外交も進めるつもりだ。
一昨年戦った岩城氏とは既に協力体制を進めている。
岩城氏は海に面しているので物資の流通などを考えれば友好関係を築かねばならない。
その証拠に昨年、岩城氏が那須氏より援軍を求められた際にも二階堂氏より兵を派遣したのだ。
俺も大崎へ行っていたため父が出陣することはなかったが、石井何某を送ったと聞いた。
喜連川五月女坂で行われた宇都宮氏との合戦で軍功があったので感状を出し、新城白子あたりに領地を貰ったらしい。
話を元に戻すが、この松山城攻めを無事乗り切ることができれば、もう一つの戦略も見えてくる。
そのためにも蘆名氏にはあえてしっかりと二階堂氏の戦力を見てもらおうか。
ここからが蘆名氏との外交がスタートとなるため、正直に言って国力は大きく違うが舐められるわけにはいかないのだ。
1537年夏 蘆名氏 ~松山城周辺~
今回の二階堂領松山城攻めには五百ほどの兵を用いている。
本拠である黒川城からは遠いこともあり長沼城周辺の農民達も従軍させているが、一部は近隣に領地を持つ家臣へも従軍を命じている。
「盛氏殿、思っていたよりも二階堂氏はやるようですな。それとも蘆名の兵が弱くなりましたかな」
「盛頼殿、様子見で無理もしておりませんからこの様なものでしょう」
猪苗代盛頼殿は蘆名氏の有力な武将であり、猪苗代氏には蘆名氏から盛清殿当主としてが入っていたので一族と言える。
しかし、この猪苗代氏は独立の気風が強く、父盛舜が家督を継いだ際にも一部が反乱を起こしおり厄介な存在だ。
「それでは我々がもう一押しいたしましょう」
「分かりました。くれぐれもお怪我など致さぬよう」
「では」
こうして盛頼殿は配下の兵を連れて松山城を攻め立てたが、結果は芳しいものではなかった。
さして城としての防備が厚くないと思われる松山城であったが、守り手の印地や弓が的確に攻め手を捉えたため怪我人が増加するばかりとなり、継続的な攻撃が困難となった。
盛頼殿も配下の兵が半数以上負傷してしまったため攻撃を断念している。
多少の盾なども用意して対策をしたつもりだったが、どうやら予測が甘かったようだ。
死人が出る前に戦は終いにすることにしよう。
では、もしも野戦ならば二階堂氏とどう戦うか・・・。
考えながら帰途に就くとにするか。
読んでいただきありがとうございます。
1537年木下藤吉郎(豊臣秀吉)誕生。