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13 大崎氏の内乱4

楽しんでいただければ幸いです。

大崎編最終回。

1536年6月 二階堂氏 ~大崎領古川城~



伊達氏連合軍による古川城への総攻撃が2日目に入った。

昨日と変わらず猛攻撃を仕掛ける俺達に城側は受け身の姿勢に見えた。

城門へ殺到する攻城側の兵を城側の兵が弓や印地で攻撃するが、それを横から弓兵や俺達印地隊が邪魔して援護していた。

すると、城門へ集まっていた兵達の隙をついて、伊達氏の兵が別の場所の堀を大きな梯子の様なもので越えていき城壁にとりつくことが出来た。


古川城は堅城であったが、その地形を見ると平城であったため高低差が大きくないことから堀を攻略されると防御が弱かったのだ。

さすが稙宗殿だ、事前の見分で十分城の弱点を見極めて攻め方を考えていたのだろう。

こうして昼過ぎに城壁を乗り越えて城へ討ち入る兵が出ると一気に戦況が進んだ。


混乱して崩れる城側に対し攻城側は雪崩れ込むように城内へ攻め入ると、夕刻までに一気に本丸近くまで攻め進んだ。

もちろん俺達は城内へ攻め入ってはいない。虎口とかで敵に矢でも食らったら危ないじゃないか。

城側の被害は大きく、千人近くいた兵の半数以上が死傷しているらしい。

稙宗殿は敵の戦意が下がったことを感じ取ると、夜にわざと囲みの一部を開けて城兵を逃亡させた。


すると翌朝になると本丸には、百人を切る程度の者しか残らなかった。

再び総攻撃を開始した伊達氏連合軍に城側はなす術もなく、城主の古川 持熙もちひろ殿以下縁者は自刃して果てた。

しかし、見分で新田頼遠殿を見つけることができなかったことから、昨夜のうちに逃亡していたことが分かった。


次の攻撃目標は、高泉城だったが城主の高泉直堅殿が城に火をつけて逃亡したため、氏家氏が守る要害岩出山城へ向かうこととなった。

岩出山城は噂に違わない堅城で、伊達氏連合軍も連日攻勢を掛けたものの攻めあぐみ、陥落させることは出来なかった。

攻守両方が疲弊し、稲の刈入れの時期も近づいたため、9月には和睦が成立した。

こうして岩出山城攻略戦が終わったことで、大崎氏の内乱はひとまず幕を閉じることになった。


ちなみに新田頼遠殿は再度逃亡していた。噂によると隣の出羽へ逃げたらしい。

驚いたのは岩出山城の城主にこれまでと変わらず氏家直継殿が収まったことだ。

これって大丈夫なのか?後で何か起きるとしか思えないんだが。わざとフラグ立ててんのかな。

大崎氏の内乱を治めた伊達氏はこれによりその権威を大きく示し、奥州での影響力を広げた。


もちろん俺達は戦が終わったので二階堂領へ帰ることとなり、途中で西山城に寄ってまつ姫らにご挨拶する以外は真っすぐ須賀川城へ戻る予定だ。

大変な戦だったが伊達氏の戦ぶりをこの目で見ることが出来たし、西山城へ逗留している間は稙宗殿から特別に許可を得て領地を治めるのに参考となる書物を行有と一緒に写本させていただいた。

稙宗殿はオールマイティな人だよね。戦、外交、内政と何をやらせても一流だ。

そう言えば出来たばかりの領内の法に関して稙宗殿達と意見を交わしたんだが、あれって有名な分国法だったのかな?


読んでいただきありがとうございます。

(注)文中の「岩出山城」ですが史実では伊達氏が移封されるまで「岩出沢城」と呼ばれていました。

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