100 エピローグ
これで本当に最後となります。
楽しんで頂ければ幸いです。
チェックしないで投下しました・・・。
<その後の二階堂と奥州>
輝行の死後、二階堂と伊達、蘆名ら奥州の大名は引き続き豊臣に臣従する事となったが、蘆名が徳川と繋がっている事を裏で咎められ、南会津の一部を白河の蒲生氏郷殿へ譲り渡す事を認めざるを得なかった。
奥州の抑えとして置かれ正史でも優秀な統治者であったは氏郷は、奥州の大名とも交流を持ちながら白河の地を発展させていく事で奥州に一定の安定をもたらした。
また、本来は秀吉から認められる事は無かった南蛮との貿易も、豊臣への外洋船技術の提供やキリシタン大名である氏郷の尽力もあり特別に岩城の地で交易が認められる事となった。
これは輝行の残した功績の一つとされており、この交易により奥州の産業の発展が促されたため地域経済が底上げされたと考えられている。
なお、奥州仕置後に発生した葛西・大崎一揆や九戸の乱で奥羽において改易が行われたが、本来は伊達が改易により治めるはずであった地は細川忠興が治める事となる。
忠興は本能寺の変後、妻玉子の父である明智光秀に付かず秀吉へ味方し、光秀討伐後も畿内の平定に協力した事から信用を得て、以前足利義輝の命により陸奥守であった細川輝経の養子となっていた縁もあってか、大きな加増となる葛西大崎30万石を与えられた。
豊臣秀吉は輝行へ言った通り明との対等な国交関係を結ぶ事を秘めた目的とし、文禄の役と呼ばれた第一次の朝鮮攻めを行った。
奥州勢もこれへ参加し過酷な戦いを強いられたが、豊臣からの改易を恐れて参加せざるを得なかった。
各大名はいくつかの隊に分かれて朝鮮を攻め、順調に首都漢城府や開城、平壌などを占領していったが、一時期より李氏ら朝鮮族の反攻により平壌、開城などを失い撤退する事となった。
現地では互いにこれ戦いを継続する事は困難と考え講和交渉が開始されたが、講和を纏めるために互いの上司へ嘘の報告をした事から最終的に講和へ至らなかった。
内心、一度の交渉で明との講和が実現するとは考えていなかった秀吉は再度の朝鮮攻め(慶長の役)を指示したが、自身の高齢には勝てず志半ばでこの世を去る。
なお、その少し前に白河の蒲生氏郷が40歳の若さで亡くなった事から奥州における豊臣の影響力が下がり、蘆名と徳川の交流が活発化する事となった。
秀吉の死後、豊臣を纏めていた石田光成は家康との対立が進む中で、奥州勢が豊臣方となると考えていたが、豊臣方の纏まりの無さを調べにより察した伊達・二階堂らは最終的に蘆名を通して徳川へ見方する方針を固める。
このため、奥州からの攻勢を心配せずともよい徳川方は大きな敵対勢力となった上杉を討つべく新潟方面へ進軍した。
奥州勢も徳川方として蘆名が最上義光らと豊臣方の上杉を北側から攻め、二階堂は蒲生秀行らと共に佐竹を牽制、伊達は中立を維持する細川忠興を警戒して北へ注意を向けながらいつでも出陣出来る体制を維持した。
この結果、関ヶ原の戦いはほぼ史実通りの結果となり、徳川が豊臣を破る事となった。
その後の大阪冬の陣、夏の陣でも奥州勢は徳川へ従って参戦、目覚ましい成果を上げたため所領安堵を約束された上、今後も岩城に限って南蛮との貿易を許された。
このことから農産物の生育が悪い奥州において嗜好品の生産が盛んになり、徳川幕府の一定の規制はあったものの貿易による利益があったため、史実より若干の生活改善があった。
二階堂もそれにあやかり、農産物以外の生産が盛んであった他、輝行の念願であった安積平野へ猪苗代の水を引く疎水事業が約百年掛かって実を結び、南東北の農業生産力を向上させた。
この事業は、伊達が関ヶ原後に徳川から加増された細川領(旧葛西大崎領)の一部で行った開拓に並ぶ石高を生んだと言われる事となる。
徳川幕府の下で二階堂は、伊達や蘆名と共に徳川から信頼を得て存続し、明治維新でその役割を終えるまで民を慰撫して統治に努めた。
なお、二階堂の城下町であった須賀川の地は商都として大きく発展し、文化・芸術が庶民へも浸透する程だった。
かの松尾芭蕉がこの地を訪れた際には、人々の歓迎と街の居心地の良さから歌を詠んだ後もなかなか須賀川の地を離れようとせずに弟子を困らせたと言う。
かくして二階堂家を存続させると言う輝行の野望?は果たされたのだった。
◇◇閑話◇◇
1601年9月下旬 二階堂氏 ~須賀川城~
お爺様がお亡くなりになってもう10年が経つ。早いものだ。
一時は家内が混乱したものの、父盛義が当主としてしっかり纏めたため大きな問題は無かったように思う。
当時私は30歳になっており、次代の当主に成るべく研鑽に励んでいた。
そして、今年の春に徳川から所領安堵と共に私、二階堂行輝が新しい当主となる事が認められたのだ。
そこで父は私に立派な文箱を渡した。なんでもお爺様から頂いた物だと言う。
中にはお爺様が書いた当主としての心得が入っているそうだ。
私はその文箱を開けて書付を読む事とした。
読んでみれば漢文を引用した当主としての心得を書いた物であり、父が普段から私へ薫陶していた事もその多くがこの書付に書かれていた事だった事が分かる。
私もこれを息子へ伝えていかなければならないと心に刻んだ。
しかし、父からこの文箱を受け取る際に、管理に十分注意し当主以外の者がこの箱を触ってはならないと強く言われたのだ。
書付の内容からすればそれ程の重要な内容とは思えないのだが・・・。
まて、この文箱はその大きさが書付を入れる内箱の容量に合っていない気がする。
もしかすると・・・。
案の定、この文箱は二重底になっており、隠された物があった。
それは一冊の書物の様だ。表面には『奥羽独立国考察』との文字が読み取れる。
その横には著者としてお爺様の名前と花押もあるのだ。
独立?どういうことだ?二階堂は一貫して有力な権力者へ協力して所領を統治する事が家の方針であったはずだ。
中を見ると奇想天外な話が次々に記されていた。
お爺様は豊臣秀吉公に協力し、奥州の安堵を願い出るため老いた身を酷使して小田原攻めへ向かった事があった。
九割方は成功すると考えていたが、側近の反対により最悪失敗する事も想定していたと言うのだ。
その際に考えていたのが奥羽の各家同盟による独立であったらしい。
頂点に天皇を置かない有力大名を盟主とした『連合国』?と言うもので統治を考えていたのだ。
私には想像もつかないが、奥羽は中央の厳しい統制と搾取により何度か反乱を起こしている。
やっと成し遂げた奥州の平穏が破られるのならば、一層の事、奥羽が中央から独立してしまう方が良いと考えていたのだ。
その手法も白河の関や各街道の砦、とその近くの山々を要塞化して大軍を跳ね返し、同時に軍船による西国の港町を砲撃で攻撃して疲弊させると言う通常では考えられない方法だった。
これを決行する際の細かい指示も記されている事から一部は実行された物の様だ。
最後の方には、この事を恐らく秀吉公が気付いて奥州の大名へ比較的寛大な処置をしたと追加で記されている。
ただし、そこには更に続きがあった。これを読んだ私は理解が追い付かず頭を抱える事となる。
お爺様は南蛮との交易だけではなく、東の海へ船を派遣して未知なる島を経由し、未知なる大地へと人を派遣する事を計画していたのだ。
そして、そこには南蛮から虐げられた民を助け、正当な支配者と誼を結ぶ事で連合国の更なる発展を計画していたらしい。
これは大いに問題のある書物だ。もしも徳川に知られれば改易では済まず、二階堂は取り潰しとなるだろう。
だから父は厳重にこの文箱を管理する様に強く行ったのだな。
文箱を手放す際に見た少し安堵した様な表情はこの事だと思い当たる。
ああ、私も息子にこの文箱を手渡すまでその苦悩を心に秘めなければならないのだ。
出来ればこの書を燃やしてしまいたいとも思う。
しかし、本当にいつまで徳川が存続するかは誰にも分からない。
万が一、再び奥羽が討伐の危機に晒されればこの書は重要な物となるため失う事は出来ないのだ。
この書が今後も用いられない事を祈るとお爺様も記されている。
しかし、最後の東にある未知の島や未知の大地の話は本当なのだろうか?
お爺様もご高齢になっておかしな夢でも見たのではないかと思う。
それにしては工程の日数や補給の大まかな場所まで記載されている事はなぜだろう?
私はこれ以上深く考えず、二階堂家の秘密としてそっとこの書を文箱の二重底の中へと仕舞った。
【終】
最後まで本作を読んで頂きありがとうございました。
この物語はパラレルワールドでありフィクションです。
史実や現実と大きく異なる設定があったためご不快な事もあったかと存じますがご了承ください。
これも偏に作者の力量不足から来るものと考えております。
また、メンタルが弱い性か感想を読んでいると考えがぶれるため、途中から予告も無く感想の確認や返しを怠っておりました。
この場を借りて重ねて深くお詫び申し上げます。
なお、この理由もあって誤字等の修正も余り行えておりません。
時間がある時に少しづつ対応出来ればと考えております。
ここに至って今更ですが、一人称でこの小説を書き上げましたが、長く小説を読んできた者としてはこのスタイルに違和感を覚えることもございました。
このため、もしかするとこの物語をもう一度三人称で改定する事もあるかもしれません。
もちろん、出来るかどうかは自分の予定も含め全くの白紙ですが・・・。
最後に、もう一度この作品を読んで頂いた皆様に厚く感謝し、皆様のご多幸をお祈り申し上げて終わりと致します。
機会があればまた、いつか、どこかでお会いしましょう。