婚約破棄のリスク
「姫!どうか!」
本来ならば、王宮において王族の身のりを世話する女官の長………女官長はただ今、必死の形相でとある場所に少女を連行する為に全勢力を注いでいた。王宮内に執務室を与えられた一人の少女はその言葉にかじりついていた机から顔を上げる。
「嫌よ、だって明日は灌漑設備の提案を陛下にしたいんだもの」
母親譲りの銀色の髪。父親譲りの空色の瞳。形の良い唇。全てがバランスよく配置され、黙って微笑めばかつて“妖精姫”と呼ばれた母親と遜色ない可憐な容姿をしていながらも彼女の生き甲斐はー国を豊かにすることーである。
「だいたい有力な家の社交界でもなく、誰かと繋がりを持てるような社交界でもなく、ただ………ただかつての王妃様の生家で開かれるダンスパーティーになんて行きたくないわ!」
女官長の言葉に仕事の手を止めた少女は覚めた眼差しで吐き捨てる。
「それに………お給金も発生しないパーティーで王太子のパートナを務めるだけに出席するなんて時間の無駄じゃない!!」
そんな彼女の発言に毎度の事ながら女官長は目眩を覚える。一国の王太子のパートナを所望されているにも関わらず………そんなの時間の無駄!と言い切る令嬢の名前はフローリア・レディオ。一軍を預かる軍隊長の父を持ち、かつて元王太子に婚約破棄をされた令嬢の娘は可憐な容姿を裏切るほどに現実主義者だった。
「ですか………王妃様が是非ともフローリア様にもご出席頂きたいと………」
「王妃様が?」
頑として資料と書類の散乱する部屋から出る気のなかったフローリンアは弱りきった女官長の発した言葉に反応する。考えるように瞬きをする少女を前にかつて令嬢の母親を知る相手として女性は嘆息した。
ーフローリア・レディオー
弱冠17歳で、王立高等学院における卒業単位を全て取得した異例の少女が首席での卒業の褒美に王に望んだのは政治への参加権。唖然とする面々を横目に凛とした横顔をあげて少女はこう望んだ。
『かつて、この国は私の母と陛下の婚約破棄による余波で多くの国から軽んじられ、民は辛酸を舐めました。私はそんな民の支えになれるよう勉学に励んで参りました』
その言葉に反応したのはかつて『国の衰退』を招いた面々達。彼らを見上げる少女の瞳に迷いはなかった。
『私はこの国のために命を捧げる覚悟がございます。どうか私めに祖父であるガウディオ・レディオの側に仕えることをお許し下さい』
20年前に起こった婚約破棄の影響は国を衰退させ、国の存亡を危うくした。その事実を指摘する彼女に多くの人々が変革の兆しを感じたのだ。
いまだに自分の言葉にーうーんーと唸るように悩むフローリアに再度声をかけようとした際………。コンコンと軽く扉を叩く音がして現王太子ーリディア・ユン・ハウルーが姿を現す。
「リディア様」
「取り込み中すまない」
そう謝罪をしながら現れた現王太子の姿に女官長はさっと腰と頭を下げる。その姿に軽く頷きながらもリディアは執務机にかじりついているフローリアに向き直る。
「フローリア、すぐに準備しろ。すぐに出るぞ」
普段は優雅な姿を崩さず、にこやかな立ち振舞いに恋焦がれる少女達は多い。だがこの現王太子とフローリアの間に漂う空気に甘ったるい空気感は一切ない。あるのは切ないことに『戦友』という。決して年頃の男女に使うには色気のない言葉である。
「どうしたの?リディア」
学園に置いて切磋琢磨した卒業時、次席だった現王太子の言葉にフローリアは驚いたのか軽く首を傾げる。普段は息すら切らすことなく、優雅な姿を崩さない王太子が珍しく息を切らして服を着崩した姿で自分の前に現れるのは珍しい。そんなフローリアの疑問を感じとったのかリディアはニヤリと笑う。
「フローリア、母の生家でのダンスパーティーに隣国の大使が参加するらしい」
「まぁ!なんてことなの!」
ダンスパーティーという言葉には拒絶の意思しか示さなかったフローリアはリディアの言葉に白い頬を紅く染めて立ち上がる。隣国の大使様の存在が可憐な容姿の少女の心を踊らせる。
「是非とも、お近づきにならなくては………リディア、ちょっと待ってて下さる?私、すぐに準備しますから」
そう告げると大事な書類を鍵付きの引き出しに直した少女はうふふと笑いだす。
「ああ………もちろんだよ………フローリア」
可憐な美少女の言葉にリディア・ユン・ハウルは黒い笑顔を顔に浮かべる。
「隣国の大使と仲良くすることは大事だからね………」
フフフ、ハハハと楽しげにこれから訪れる時間に思いを馳せる二人の若者に女官長は何も口にすることなく部屋を後にした。