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夢見る少女の錯覚未遂  作者: 油淋鶏
第二章:『藪の中』を読んで
9/10

「おーい、冬杜くーん、大丈夫かーい?」

 目の前に黒い影があった。

 影絵の世界……ではない。逆光になっているせいだ。

 やがて混乱する瞳孔の調整機能が最適な絞りを見つけ出したが、それでもやはり目の前の人物は黒いままだった。この影法師のような前髪、どうやら先輩のようだ。

「もうっ。先輩じゃなくて、カナミって呼んでよ」

 ……もとい、どうやらカナミさんのようだ。


 ようやく意識がはっきりとする。

 逆に言えば、どうやら僕は意識を失っていたらしい。

 背中にはコンクリートの感触。僕を覗き込む黒いカナミさんと、その後ろに広がる青空。

 現実を認識すると同時に、先程までの夢の記憶はみるみる崩壊していく。

「うん、戻ってきたようだね。大丈夫? 頭痛くない? 意識ははっきりしてる? これ何本?」

 寝そべる僕にVサインを突き付けるカナミさん。勝利宣言というわけではないようだ。

「……二本です」

「ここはどこ?」

「……日本です?」

「ココアどう?」

「…………飲みます。ミルク多めでお願いします」

 ニホンに絡めて上手いことを言おうと思ったが、さすがに起き抜けの頭はそこまで回らない。

「やだっ、ミルクだなんて。それは遠回しに『カナミさんのおっぱいを吸わせて下さい』って要求してる?」

「ははは。吸うほど無いでしょう」

 踏み付けられた。

 パンツは逆光でよく見えなかった。


「冬杜君、大丈夫? 頭痛くない?」

「……踏まれた顔が痛いです」

「意識ははっきりしてる? これ何本?」

「二本です」

「ここはどこ?」

「日本です」

「ポコ・ア・ポコ?」

「……クレッシェンドすると良いですね、その胸」

 踏み付けられた。

 恐らく黒系。

 ちなみに、poco a pocoは「少しずつ(little by little)」という意味のイタリア語で、音楽用語として使われている。poco a poco cresc.で「少しずつ大きく(強く)」。


「冬杜君、大丈夫? 頭悪くない?」

「……a little」

「意識ははっきりしてる? カレー南蛮?」

「……食べたいです」

「ココアどう?」

「食い合わせ最悪ですよね?」

「ロコモコも?」

「胃がもたれるっ!」

 踏み付けられた。

 やっぱり黒。レースの縁取りなんかがあって意外とアダルティー。


「――って、今のは踏まれる理由ないですよね!?」

「ごめんごめん。今回のテーマは繰り返しかなと思って」

 飛び起きて文句を言うと、カナミさんは笑いながら意味不明の謝罪をしてきた。

 重ねて文句を言おうとしたが、一転して気遣わしげな顔をするので言い留まる。

「けど、それだけ元気なら大丈夫そうだね。……驚いたんだよ、冬杜君たら急に倒れそうになるんだもん」

 なんでも立ち眩みを起こした僕を、カナミさんが支え、寝かせておいてくれたらしい。

 コンクリの床に激突しなかったことを考えれば、顔を踏まれたことくらい許すべきだろう。パンツも見せてもらったし。プラマイを考えれば大幅なプラスだ。カナミさんに感謝!

 しかし何でまた急に立ち眩みなんて起こしたんだろうか。千秋じゃあるまいし。

「うーん。たぶんフラッシュバックが来ちゃったんじゃないかな?」

 再び意味不明の言葉を発するカナミさん。

「何ですかそれ。ポーカーの役ですか?」

「役じゃなくて『ヤク』の方ね。おクスリをやると、体質や状況によっては何でもない時に再トリップしちゃうらしいよ」

 一服で二度美味しいね!などとVサインをしながら宣うカナミさん。

 ……やっぱり原因はこの人ではないだろうか。感謝を返せ!


「さて、冬杜君も復活したことだし、そろそろ行こうか」

 カナミさんの言葉にハッとする。

 そう言えば今は何時だ。僕はどれくらい気を失っていたのだろうか。

「昼休みならとっくに終わってるよ」

 あっけらかんとした言葉に唖然となる。

 スマホを取り出して時間を確認すれば、なるほど三十分も前に授業は始まっている。

「すみません、カナミさんまで午後の授業に遅刻させちゃって……」

「うん? 私は遅刻するつもりはないよ?」

 ……はて。この人は時々日本語が通じなくなって困る。

「落雷を待って三十分前にタイムスリップするつもりですか? 1.21ジゴワットくらい使って」

 見上げれば雲一つ無い快晴……ではなく、雲量1か2くらいの晴天。ぽこぽこと積雲が浮かんでいるが、いわゆる雷雲ではないはずだ。それともこれからポコ・ア・ポコと積乱雲に変化するのだろうか。

「落雷地点のピンポイント予測は不可能だから、電力源として当てにするのは無理じゃないかな。ちなみに雷は平均900ギガワットくらいあるから余りまくりだね」

 こういうどうでもいい会話は成り立つのだから困る。

「えっと……つまりどうするつもりですか?」

「サボる」

 簡潔な答え。なるほど。それなら確かに遅刻にはならない。

「分かりました。出席日数には気を付けて下さいね。足りずに留年した僕からの忠告です。それじゃあ僕はもう行きますね。失礼しました。さようなら」

 昨日の昼休みの台詞を焼き直して退散を決め込むシンデレラな僕。

 もっとも、焼き直しである以上、この後の展開も読めてしまうわけだが。

「待ちなさい、冬杜君」

 案の定、カナミさんからは制止の言葉が掛かった。以前とは微妙に異なってる気もするけれど。

「私は『行こう』って言ったよね? レッツゴーだよね? 冬杜君だけ行ってどうするの? イく時は一緒でしょう?」

「……微妙に発音が違いませんでしたか?」

「絶頂する時は一緒でしょう?」

「人として間違ってますよね」

 さて、こうして馬鹿話をしてる間にも、どんどん授業の時間は削られていく。いい加減、話を切り上げるべきだろう。

「つまりカナミさんは『一緒に授業をサボって、どこかへ行きましょう』と提案しているわけですよね? 僕の答えは『嫌です。僕は授業に出ます。カナミさんがサボることについては忠告はしましたが強制はしないのでご自由にどうぞ。それでは』です。それでは」

 こういう手合いに中途半端な物言いは逆効果だ。断固として宣言することが重要だ。

「入部届」

「それではどちらに参りましょうか? お伴させて頂きます」

 すぐさま折れる僕。くすくすと笑うカナミさん。

「ありがとう。冬杜君のそういう薄っぺらいとこ好きだよ」

 僕は嫌いですけどね。

「もう、そんな顔しないでよ。どうせ昨日もサボったんだし構わないでしょう?」

 期せずして抜け落ちた昨日の記憶が補完された。想像は付いていたが、どうやら昨日も午後の授業はサボってしまったらしい。

 人間、一度足を踏み外してしまえば、転がり落ちるのは早い。

 もはやこれから授業をサボる事への罪悪感もどこへやら。開き直れば、むしろこれから何が起きるかという期待感が湧いてくる。

「それで、僕らは一体全体どこに行こうと言うのですか?」

 カナミさんは知恵の実を食わせた蛇のように笑うと、チロリと舌を出してから行き先を告げる。

「何言ってるの。新入部員が最初にすることと言ったら、ボスへの挨拶でしょう?」


 ロの字型の校舎は、東棟、西棟、南棟、北棟と方位別に呼ばれている。教室は日当たりの良い南棟に集中していて、特別教室が中心の西棟や北棟は幾分静まっている。なので授業中に移動するなら北西の階段が狙い目、とは不良生徒なカナミさんの談。こそこそと歩く僕とは対照的に、その足取りは堂々とした物だ。

 一階でぐるりと南棟の昇降口に回り込み、外履きに履き替えて更に移動。目指すは部室棟。二階建ての長屋で、校舎とは体育館を挟んで反対側にあり、辿り着きさえすれば教師に見つかることはまず無いと言う。

 かくして、呆気なくサボタージュは成功。部室棟に到着である。

 耳を澄ませば幾つかの部室から物音や話し声も聞こえる。どうやら僕達の他にも午後の授業を自主休講してる生徒が相当数いるらしい。うちは生徒の自主性を重んじるという校風のため、サボりについても寛容だとか。寛容ではなく放任な気もするが、その方が都合がいいので突っ込まない。

 気象部の部室は一階の端の方だった。ドアの脇には他の部活同様、『気象部』と書かれたプレートが掛かっており、他は特にこれといった特徴はない。換気扇が回っている所を見ると、中には誰かいるようだ。

 カナミさんは例の黒猫キーホルダーの鍵束を取り出すと、反対の手の人差し指を立てて「静かに」というジェスチャーをする。理由は分からなかったが、黙って頷いた。

 ドアを開けた途端に、むわっと熱気が襲いかかる。不意打ちに思わず目をつむる。不自由になった視覚の代わりに聴覚が様々な音を捕らえる。大小のファンの唸り、カリカリと何かを引っ掻くような音、キーボードを叩く音、そしてハスキーな声。

「良い所に来てくれたカナミ君。データ整理を頼みたいのだが引き受けてもらえるかい?」

 ゆっくりと目を開ける。部屋は狭く、灰色の壁に囲まれているため、どこかあの踊り場に似ていて、同時にあの踊り場とはまるで異質の空気を放っていた。

 物が多いにも関わらず整然とした室内。右手の壁一面に並ぶ本棚は、様々な本やノート、ファイルなどでビッシリと埋まっている。左側にはメタルラックが並び、何に使うか分からない器具(辛うじて風速計は分かったので、他もお天気関係の機材なのだろう)や、工具箱を初めとするケースやダンボール箱類、他にも雑多な物が並んでいる。

 正面奥には事務机が二つ、壁に向かって横並びになっている。その片方、左側の机には、やたらにデカくてゴツいパソコン(うちのより二回りはデカい)と大きなモニタが置かれ、他にもよく分からない電子機器が所狭しと、しかしある種の規則性をもって並んでいる。

 声の主はそんな机で、目まぐるしく何かが表示されるモニタと向き合っていた。学生には不釣り合いな高級そうな椅子(背もたれがメッシュ状のやつ)に座り、こちらに背を向けたまま、剥き出しの腕を上げてヒラヒラと振る。

「ちょっと待っててくれ。もうすぐ出力が終わるから」

 どうやら今のヒラヒラはちょっと待っていろの合図だったらしい。

 さて、取り込み中のようだし待つのは別に構わない。構わないのだが、別の箇所に引っ掛かりを覚える。ぼんやりとした不安と呼ぶより、やや明確な、有り体に言えば嫌な予感だ。いや観察出来る状況から推察される嫌な予測と言うべきか。

 例えば剥き出しの腕、例えばメッシュの背もたれに透けるシルエット、例えば乱雑に後ろで一結びにした髪から覗くうなじ……は良いとして、例えば隣の机の上に綺麗に畳まれて置かれたブレザーとワイシャツ、例えば蒸し暑い室内。加えて「ちょっと待ってて」という言葉。それらから予測できる未来は果たして何か。

「よし。ではカナミ君、とりあえず出力した気温データの整理を頼めるかい?」

 結論を出す直前で、高級そうな椅子が軋むこともなく百八十度回転した。

 理知的な顔の美人さんと一瞬だけ目が合う。慌てて顔を逸らすが、網膜には既に白い肌が目に焼き付いていた。

「ん? ああ例の新入部員か。私は部長の矢代だ。気象部にようこそ。歓迎するよ」

「あ、はい、僕は冬杜大樹です……じゃなくて」

「君のことは昨夜、そこのカナミ君からメールで概要を聞いている。災難だったね」

「あの……それよりですね……」

「ふむ。冬杜君、私が言うのも何だが会話はお互いの目を見ながらする物だ。なぜ大仰に顔を逸らす。それほど私の顔を見るのが嫌かい? いささか傷付くね」

 後ろでカナミさんがくつくつと笑うのが分かる。

「いや初対面の人間の行動に口出しするのも不躾か。君の意思を尊重するとしよう。私から以上。一方的に喋って済まないね。では質疑応答に入ろうか。何なりと言ってくれたまえ」

 うん、お言葉に甘えよう。言わせてもらおう。

 静かに息を吸い込む。顔を正面に、けど視線は微妙に逸らしながら。上段から振り下ろした指を、真っ直ぐ突きつける。

「まずは服を着ろーっ!」

 ゲラゲラ笑い出すカナミさん。真っ赤な僕。首を傾げる下着姿の矢代さん。

 ……はたして僕はこの部でちゃんとやっていけるのだろうか。まったく、考えるだけで目眩がしてくる。

 ――――目眩が、襲ってくる。

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