挿話 『蛇』
目眩がした。
思わず目を閉じ、遠退こうとする意識を繋ぎ止める。細い糸にしがみつき、他人事のような耳鳴りが過ぎ去るのを待ち、ゆっくりと眼を開ける。
時間にして僅か数秒の視覚の遮断。
しかし――気が付くと僕は、夕間暮れの屋上に、ぽつんと取り残されていた。
先程までの眩しい陽射しは消え、あたりは宵闇に呑まれようとしている。全てが曖昧で、どこか懐かしさを覚える、ぼんやりとした影絵の世界。
先程まで隣に居たはずのカナミさんの姿はなく、代わりにぼんやりと浮かび上がる白い影法師。
一日ぶりに会う白い少女は、屋上には不似合いな椅子に腰掛け、手にした文庫本から視線を外さぬまま、ぽつりと呟いた。
「ふむ、御主もつくづく時間を守らぬ男よのう」
咎めるではなく、僅かに呆れたように。
そうして少女は再び手にした本を読み始めた。この暗さで文字など見えるはずはないだろうが、彼女には関係ないのだろう。元より瞳は包帯で塞がれているのだ。けれど少女は細い指先で、開いた本の一文字一文字を愛おしむように撫でていく。それが、彼女にとっての「本を読む」という行為であることが、なぜだかすんなりと理解出来た。
ふいに少女の指先がぴたりと止まり、かすかに笑う気配がした。
しばらくの間を置いて、再び少女の指が動き出す。先程までとは違い、まるで蛇が這うかのように、ゆったりと、絡み付くかのように。
そして恐らくそこに書かれているのであろう一節を、深みのある声で読み上げていく。
「『しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳を見ないからです。』」
少女の顔は闇に呑まれ、見ることが出来ない。
少女の瞳は布に包まれ、見ることが出来ない。
「くふ。そうまじまじと見詰めるでない。照れるであろう」
少女は本から視線を外し、僕を見詰め返す。
包帯に包まれた瞳。通じ合うはずのない視線の交差。はたして「見る」とは何なのかを考えさせられる。
「然り。見るとは認識であり、そこには主観があり、そこには事実が無い」
少女は開いた本を僕へと向ける。分かるのは本の外形のみ。そこに書かれた文字は闇に呑まれて判別できない。いや、仮に明るかったとしても、この距離では読み取ることは出来ないだろう。
「木樵の物語、旅法師の物語、放免の物語、媼の物語、多襄丸の白状、女の懺悔、そして死霊の物語」
少女が並べた言葉で、見えなかった本が見えてくる。
ああ、なるほど。
何に対してかは分からぬままに、僕は納得をした。
「御主も読んだことがあろう。多様な視点で語られる一つの噺を」
まただ。
前回は『蜘蛛の糸』だった。
そして今回は――
「くふ。芥川自体に意味は無いのだがのう。単に此度の噺に都合が良いので、外側だけ借りたに過ぎぬ」
尤も、其処に意味を見出すは御主の勝手であるが。
そう言って少女は椅子から立ち上がり、暗闇を仰ぐ。世界に語り掛けるように、少女は噺を紡ぐ。
「此は鬼退治の噺。故に此は挿話に過ぎぬ」
その声は、深く深く影絵の世界に染み渡る。
影絵の世界は、その声に応じるように、より一層暗さを増す。
白から灰に、灰から黒に、少女の姿は溶けていく。
「して、御主は『藪の中』に何を見る。何を通じて『鬼』を見る」
さて、戯れようぞ。
笑い声。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
唄い、ぱたん、と本を閉じる音。
少女は消え、代わりに現れたのは――