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――夢を見ていた気がする。
目覚めるとベッドの上。カーテンを開けたままの窓から、目を刺すような黄色い日差しが差し込んでいる。
爽やかな朝の日差しとは裏腹に、妙に体がだるく、意識もハッキリとしない。まるで入院していた頃に戻ったかのようだ。眠気を振り払おうと首を振ると、鈍器で殴られたような頭痛と吐き気が一遍に襲ってきた。なんとか堪え、重い体を引きずってトイレに向かい、便器に顔を突っ込むようにして酸っぱい匂いの体液を吐き出した。
滲む視界でゲロまみれの便器を覗き込みながら呟く。
「やばい。記憶がない」
覚えているのは屋上の扉と、そこから差し込む光、そして……そこで止まっている。
放課後、先輩に会ってから先程目覚めるまでの半日分の記憶が、きれいさっぱり抜け落ちている。まるで小説のページを読み飛ばしたかのように、きれいさっぱりだ。何が起きたのかは暗く深い闇の中。覗き込めば逆に覗き込まれるに違いない。かといって手探りで探そうにも、無闇に突けば蛇が出てきかねない。蛇ならまだ良いが――
『此は鬼退治の噺』
――鬼が出るか蛇が出るか。
「あー……どうしたものかな」
声に出してみたが、そんなことは決まっている。
まずはトイレの水を流す。それから歯磨きだ。
台所に行くと、いつも通り妹がパジャマエプロン姿(裸エプロンと音が似てるが、まったく異なる姿)で朝食と弁当の支度をしていた。
「おはよう妹」
「ん」
後ろ姿に挨拶をしたが、妹の返答はひどく短く素っ気なかった。振り返らないし声が低くて棘がある。どうやら今朝の妹は、すこぶる機嫌が悪いようだ。こういう日は下手に話しかけない方が良いことを、僕は二年半の経験で学んでいる。
もっとも、あからさまな態度は怒っているというより、「私は怒ってるんだからね」というアピールだろう。余談だが機嫌が良い日は逆に話しかけてやらないと、ぷーっとむくれる。色々と面倒な妹だ。
会話は諦め、食卓に着いて妹の後ろ姿を眺める。包丁の軽やかなリズム。妹のちょっとした動きに合わせて、くせっ毛が揺れる。緩やかに波打つ髪は女の子らしくて可愛いと思うのだが、本人にとっては軽いコンプレックスらしい。どうも物事に対するスタンスは人それぞれのようだ。
ところで、料理は妹の分担である。
昔は僕も簡単な料理くらいはしていたのだが、なにぶん今はこの右手だ。左手を使って出来ないこともないのだが正直言って面倒臭い。そもそも台所というのは配置からして右利き用に作られているのだ。元から左利きの人ならば「そういうもの」として捉えられるかもしれないが、右利きとしてその利便性を甘受してきた身としては、左利きに転向した現在、その不便さが身に染みる。中でもとりわけ厄介なのが包丁だ。アレは明確に右利き用に作られている。無理をすれば左手でも切れないこともないが、ちょっと角度を間違えると「刃」が立たない。結果、食材を押し潰すことになる。
嘘だと思うのなら試しに左利きになったつもりで台所に立ってみると良い。五分もしない内にストレスで生卵を壁に叩きつけたくなるだろう。慣れない左投げでは、それすらもストレスになるだろうが。
まあ何が言いたいかというと、妹に飯の支度を任せて食卓に座っているのは、決して僕が悪いわけではなく、右利きというマジョリティに媚びへつらう資本主義社会によるマイノリティへの迫害が原因なのだということだ。
……さて、妹が相手をしてくれないので一人で馬鹿な思索に耽っていたが、どうやら調理の区切りが付いたようだ。火を止めてこちらを振り返った妹は、案の定ふくれっ面である。口を尖らせ眉間に皺を寄せ、眼鏡の向こうの猫目も睨むように細められている。こういう時の表情は昔とちっとも変わらない。高校生になって性格的にすっかりと大人びてしまった妹だが、こういう子供っぽい一面も残っていることに兄として正直ホッとする。
む~っと僕を睨むこと十秒弱、妹は諦めたように大袈裟な溜息を吐く。
「はぁ……そういう所も含めて兄だし、仕方ないか」
うんうんと僕を置いてけぼりのまま自己完結し、妹は笑った。
「おはよう兄」
「うん。おはよう妹」
なおざりだった挨拶のやり直し。身内贔屓で恐縮だが、こういう切り替えの良さが妹の美点だと思う。兄馬鹿と言うなら言うがいい。僕は兄で、僕は馬鹿だ。
「それじゃあ兄、縛るから手を出して」
「よろしく」
言葉だけ聞けば異常なセリフだろうが、毎朝の日課なので素直に従う。隣に座った妹も慣れた物で、エプロンのポケットから取り出した包帯でクルクルと僕の右腕を縛っていく。醜く引き攣れた傷痕は、瞬く間に白い包帯の下に隠れていった。
右腕に包帯を巻く目的は二つ。
傷を隠すこと。
傷を晒すこと。
一見、相反するように思えるだろうが、この二つは共存し得る。悲しいかな僕の右手は壊れているわけだが、僕にとっての一大事は、世間のほとんどの人間にとって無関心事である。かと言って知らないままでは面倒なトラブルを産むことが多い。まさか会う人間すべてに「僕は右手が不自由です」と言って回るわけにもいかないので、分かりやすくアピールするためには、包帯というのは便利なアイテムなのである。
『この右手は壊れてます』
包帯は僕の代わりにそう語ってくれるのだ。
「よしっ、今朝も私の包帯捌きは完璧すぎるわ」
妹は満足げな顔で頷く。綺麗に巻き付いた包帯。医療関係者が巻いたと言っても疑う人間はいないだろう。
「兄。握手」
差し出された妹の華奢な手を、力を込めて握り締める。
もちろん僕の全力などたかが知れている。
妹も握り返してくる。ガッチリと噛み付いた指は、どこか猫科の獣の捕食風景を思わせる。
それでも僕の右手は痛みどころか、妹の手に触れている感覚すらない。
「うん、昨日より良くなってるね兄」
笑いながら言う妹。嘘と丸分かりでも、その心遣いが嬉しい。握手を解いて、くせっ毛を撫でてやると、妹は猫のように顔を蕩けさせた。
以上の一連が、僕が退院してからずっと続いている我が家の毎朝の儀式である。
「さてと、朝ご飯はもう少し待ってね。先にお弁当を仕上げちゃうから」
再び調理台に向き合う妹の背に、僕は声を掛ける。
「そう言えば妹、昨日のことなんだけどさ……」
「次」
何気ない風を装って抜け落ちた記憶を補完しようという試みは、底冷えのする声で遮られた。
「ねえ兄……次に昨日みたいなことをしたら、私何するか分からないからね」
包丁を持ったまま振り返った妹の顔は、ゾッとするくらいに本気だった。
学校へ向かう道すがら、僕は考える。
果たして抜け落ちた半日分の記憶はどこにあるのだろうか。落とし物として警察にでも届いていればいいのだが、おそらく「僕の記憶ありませんか?」などと尋ねに行ったら、双方にとって、あまり楽しくない会話をしなければならなくなるだろう。
警察といえば、刑事ドラマなどで「現場百遍」という言葉を聞く。解釈は色々あるが、おそらく「百聞は一見にしかず」と似たような意味だろう。謎を解明したければ、現場に足を運べばよい。被害者の足取りを追う、というやつである。
そうなると、まず向かうべきは昨日の始まりの場所だろうか。
現場に足を踏み入れる前に、今更ながらの補足説明をしておこう。昨日から「図書館」と呼んでいるが、決して図書室の言い間違いではない。僕らが通う大丹東高校は県立校でありながら校舎棟とは別に、独立した図書館を有している。入学パンフレットにも大きく記載されている自慢の施設だ。中庭に陣取る二階建ての立派な建物で、校舎棟とは五メートルもない短い渡り廊下で結ばれている。蔵書数も高校としては県内一。いったいどこからこの予算は出たのだろうか。一説には「OBに文科省のお偉いさんがいて~」などと聞くが、事実は藪の中である。
ともあれ学校に到着し、昇降口で上履きに履き替え、ちょっと歩けば……
図書館に到着である。
居心地の良い内部に反して、外観は極めて無骨だ。日光が本に悪いという理由で窓の数も極端に少ない。入学してすぐの学校案内で、悪友の千秋が「座敷牢のようだ」と評したのが印象に残っている。なるほど確かに収容施設じみているが、刑務所や監獄ではなく、屋内にある座敷牢を選んだあたりに千秋の特異性を感じる。閑話休題。
昨日は鵠沼先生に借りた鍵ですんなりと入れたが、今朝はそうはいかない。図書館が開くのは九時で、現在はまだ八時。遊園地の人気アトラクションでもあるまいし、一時間待ちは長すぎる。そこまで分かっているのに僕はここまで来てしまった。微かな望みに賭けて扉に手を掛けるが、どうやら昨日の図書委員は職務に忠実だったらしい。まことに結構なことである。
昨日の屋上に引き続き、二日連続で鍵に行く手を阻まれてしまった。ただ昨日とは違い、落胆はない。むしろ入れなくて良かったとホッとしている。
胸を撫で下ろして立ち去ろうとした僕の背に、どこからともなく例の妙に低くて深みのある声が掛かる。
「また夕刻にでも来るが良い。御主に渡す物があるでのう」
僕はどこかでその声を予感していたのだろうか。
驚くことも振り返ることもなく、そのまま教室へと向かった。
今朝の委員長は左右の三つ編みが不揃いだった。右のお下げの位置がいつもより僅かに高い。一般的な基準からすれば十分に揃っているのだが、委員長はいつもが完璧すぎるほどに完璧に左右対称なので、ごく僅かな違いがやけに気になるのだ。
「人のことを舐め回すように見るなど、相変わらず不躾ですね。何か私に用ですか?」
「あ、いや、別に……」
視線に気付かれたらしい。そんなに凝視していただろうか。慌てて首を振る。
どう言い訳しようかと悩んでると、ちょうどいいタイミングで教室に入ってきた女子が委員長に話し掛ける。ナイスアシストだ、えーっと……山岸さん?山川さん?山泉さん?
しかし続く会話は、あまり気持ちの良い物ではなかった。
「ねえ聞いてよ佳織ー、学校に来る途中で嫌なもの見ちゃってさあ」
なになに、と周りにいた他の女子も集まって来る。盗み聞きをするつもりはないのだが、僕の席の近くで話すので自然と耳に入ってしまう。
山なんとかさんは自分から聞いてと言っておきながら、周囲の期待を煽るよう、勿体付けるように語り出す。「それがさ、バス停の近くにネコがいたんだけど、なんだか変な歩き方してて……」
続く言葉に期待するように周囲の女子が息を飲む。山なんとかさんはその反応に満足したように、にやりと笑い、期待に応える。
「その猫さ……右の前肢……肘から先のあたりがね、こう……切り落とされてたの」
途端に、きゃーなどと悲鳴があがる。嫌がる者、怒る者、興味深げな者。皆が様々な反応を示す中、我らが委員長様だけは「それがなにか?」とでもいうように、まったくの自然体だった。
「そういえば去年もそんなこと無かったっけ?」別の女子が言う。
去年の春だ。三月六日から四月一日まで。
「そうそう。キャットキラー! 連続猫殺し!」再び山なんとかさん。
殺されてはいない。肢を切られただけだ。怪我が原因で死期が早まったのはいるかもしれないけど。
ところで、どうでもいいけど最悪だな、そのネーミングセンス。キャットキラーって。きょうび中学生でも、もう少しマシな名前を付けるぞ。
「何十匹も殺されたんだよね」
だから殺してはいないし、被害に遭ったのは六匹だ。
「やだぁ、また活動再開したわけ?」
単なる事故かもしれないし猫同士の喧嘩かもしれない。模倣犯かもしれない。
……ああ嫌だ。壊れたはずの右手が疼く。
「おーい、お前ら席に着け。出席取るぞ」
場は大いに盛り上がっていたが、チャイムと共に登場した担任によって、すんなりと解散となった。
話には尾鰭がつく。
時に意図的に、時に意図せずに形を変えていき、いつしかまったく別の生物へと変容する。
話は歪な立体的構造を持っている。見る者の視点により、形は大きく変わる。ある者はその立体を球だと言い、別の者は三角錐だと言い、また別のある者はクラインの壷だと主張する。では様々な角度からの視点を統合すれば元の立体に辿り着けるかと言えば、不思議とそうはならない。無理に統合しようとしても必ずあちこちに矛盾が生じ、三次元では存在不可能な立体が誕生してしまう。だから話の真の形を推察するためには、情報を取捨選択しなければならない。たとえどれを選び取ったところで、元の話とは異なる立体が生み出されるとしても。
情報からは真実には辿り着くことが出来ない。
真実は唯一、体験者のみが知り得る。
……では体験者がその記憶を失ってしまったとき、真実はどこにあるのだろうか。
余談だが、その日、千秋は五分ほど遅刻をしてきた。
割とよくあることなので、担任も軽い注意をするだけだった。