挿話 『蜘蛛』
「此は鬼退治の噺。故に此は挿話に過ぎぬ」
白い少女が頁を捲り――世界は黒く塗り替えられる。
「あれ?」
陽が沈み、夜が訪れるまでの僅かな間隙。白でもなく、黒でもない。夕闇の世界は影絵のように色彩を欠き、曖昧な輪郭だけで構成されている。
そんな、ぼんやりとした不安の中で、僕はその影と相対していた。
目の前には、巨大な影があった。
状況を把握しようと思うが、脳は空転するばかりで何も分からない。
いや唯一分かっていることがある。
何が何だか、ちっともさっぱり分からないが、とにかく僕は今、猛烈にヤバい状況にいる。
逃げなければ。
警鐘が鳴る。警鐘が鳴る。警鐘が鳴る。気持ちは逸るのに、全身が壊れた右手になったように言うことを聞かず、ただ立ち呆けるばかり。
やがて時間切れとばかりに視覚が闇に慣れ、目の前にあった影のカタチが浮かび上がる。
思わず笑ってしまった。笑ったはずなのに、喉の奥から漏れ出したのは、引き攣った悲鳴だった。
大きく膨れた腹、左右に広がる四対の長い脚、斧のように無骨な牙。鈍く輝く八つの瞳。
蜘蛛だった。
いや、蜘蛛なのだろうか。確かにその姿形は蜘蛛に違いない。しかし目の前のコレは、僕の知るソレとはスケールが違い過ぎないだろうか。トリックアートの様な馬鹿げた光景。数メートルもある巨大な蜘蛛が、じっと僕を見詰めている。
それは何とも非現実的な光景で、これが夢であればいいと僕は望んだ。
夢であって欲しいと、僕は願った。
「蜘蛛の化物譚は数知れぬ。その容姿や性質を思えば理由は語るまでもなかろう」
背後から声が響く。
振り返ることなど出来はしない。身動きなんて出来はしない。僅かでも目を逸らした瞬間に、目の前の蜘蛛は僕との距離を詰めるだろう。それは僕が獲物から餌へと変わる時だ。
「蟲として蜈蚣に一歩譲るとは言え……いや九十二歩かのう? ともあれ蜘蛛は古来より化物としての色が濃い。されど鬼と絡めて語るならば、蜘蛛のそのものではなく、やはり土蜘蛛について語るべきであろう」
絡む、絡む、蜘蛛の視線が絡み付く。八つの視線が僕をこの場に縫い付ける。
「土蜘蛛の闇は深い。語り出せば一夜ではとても収まらぬが……まあ所詮は挿話、詳細は不要であろう。そうさな、誤りを承知で断定すれば、土蜘蛛とはつまり、『人の敵』である」
そして、と背後の声は続ける。
「鬼の一面は正にそこにあろう。『人の敵』――それが鬼よ」
ぬるり、と青白い手が背筋を撫でた。
もちろん錯覚だ。でなければどうして背を撫でた手が「青白い」なんてことが分かるものか。
「左様に恐がることはない。如何に巨きかろうと、蜘蛛なぞ所詮、手で払えば死する蟲螻蛄に過ぎぬ。ほれ、気を逸らすでない。絡め取られるぞ」
はたして虫ケラとは何だろう。そんなのは明らかだ。絶対的な強者と弱者。喰うモノと喰われるモノ。抵抗の術を持たぬ僕は、まさに虫ケラと呼べよう。あの脚を一振り、あるいはあの牙で一突き、何らかの動きがあれば僕は簡単に終わる。
幸い、目の前の蜘蛛は動き出す様子はない。眠っているのなら最高だ。死んでいるのならば更に良し。元から作り物だと期待するのは虫が良すぎるだろうか。昨今の造形技術が進歩したと言っても、目の前のコレは、いくら何でも生々しすぎる。
「して、鬼の代役を前に、御主は如何にする?」
その言葉を合図に、ようやく硬直が解ける。
いかにする? そんなの決まっている。
右足を僅かに下げる。
蜘蛛は動かない。
じり、じり、と半歩分。
それでも蜘蛛は微動だにしない。
ゆっくりと重心を移して、今度は左足を下げる。じり、じり、と右足に並ぶ。蜘蛛との距離が半歩分広がる。再び右足。唾が喉に絡まる。強張った筋肉が微かに震える。じり、じり、と再び半歩。左足が追従して一歩分の距離。空気が重い。呼吸が荒くなる。背筋を汗が伝う。視線は逸らせない。再び右足。踵がつかえる。焦るな! よろけそうに体を立て直し、息を細くゆっくりと吐く。目元が熱い。カチカチと歯が鳴る。息を止め、歯を食い縛る。再び右足。じり、と下げようとするが、上手く動かない。焦るな。焦るな。左足から行こう。ゆっくりと重心を移して、左足を後ろに……動かない。もう一度右足を、動かない。張り付いたように動かない。焦るな。呼吸が煩い。黙れ黙れ。逃げろ。無理に右足を下げようとしてバランスを崩す。思わず伸ばした右腕は空中で留まる。何故。体が捩れる。不自然な体勢。背中から倒れ込む。が、途中で留まる。両足は着いたまま、上半身だけが仰向けに。藻掻く左腕。留まる。ベタベタとした何か。逃れようとするが、僅かにたわむだけで剥がれない。声。出る。何だよこれ。悲鳴。出る。叫び。止まらない。
「『何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません』」
叫びながら、僕は唯一自由な首を巡らせる。どうして今まで気付かなかったのだろう。夕闇の中でもぼんやりと光る、縦横無尽に張り巡らされた細い糸。必死で藻掻くが逆効果だった。藻掻けば藻掻く程に糸が絡まり、やがて指先一つ動かすことが出来なくなった。
ここは既に、巨大な蜘蛛の巣の中だった。張り巡らされた不可避の罠。
既に、この訳の分からぬ状況が始まった時から、僕は獲物ではなく餌だったのだ。お釈迦様の手の平の上で踊っていた猿のように、僕は独りで踊っていたに過ぎない。
ここは地獄だ。周りはこんなにも糸だらけだというのに、救いの糸はどこにも垂れていない。
畜生、フラグを立て損ねた。こんなことなら蜘蛛の二、三匹でも救っておくんだった。
「あ、ああ、あ、あ、う……」
蜘蛛が悠々と寄ってくる。長い複数の脚を器用に動かし、僕との距離を詰めてくる。
動けぬ僕は――為す術もなく、
「あ、」
蜘蛛の餌となった。