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「あー、この作品はー、『今昔物語集』にあった話を元にしており……」
午後一の授業は現文だった。
ただでさえ眠気を誘う間延びした老教師の声。おまけに昼休み直後とあれば、つい集中力も途切れようというものだ。意識が遠のくのも不可抗力である――普段ならば、だが。
はたして試験前ですら、これほど教科書を凝視したことがあっただろうか。鵠沼先生の胸を見るときと同じくらいの真剣さで、僕は教科書に印刷された一行を睨みつけた。
『羅生門 芥川龍之介』
はてさて、これは偶然だろうか。作品こそ違え、そこに記されているのは、今朝の図書館に残された全集と同じ著者名である。
……まぁ、偶然だろうが。
さて真偽は不明だが、文学かぶれの中高生は、たいてい太宰派と芥川派に別れるらしい。どちらも思春期の若者を強烈に惹き付ける何かがあるのは確かだが、割とスタンダードなのが太宰派、ミーハーを嫌って斜に構えるのが芥川派(もちろん芥川だって十分ミーハーだが)になるらしい。ちなみに僕は芥川派だ。当然『羅生門』も既読である。
僕が芥川に傾倒したのは、ちょうど一年前……訳あって長いこと暇を持て余していた時期で、たまたま読んでいた本に引用されていた一節を目にしたのが切っ掛けだ。
『少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。』
芥川が友人に宛てた遺書の中に記した、あまりに有名な一節である。当然、僕だってそれまでにも何度か目にしていた。
しかし何故だろう。今まで素通りさせていたその言葉が、その時ばかりは僕の心の奥深くに滑るように這り込んで来た。
当時の僕は、恐らく他の多くの同年代と同じく、心の中に言葉に出来ないたくさんのモヤモヤした物を抱えていた。しかし芥川に出会い、そのモヤモヤが初めて形を持った。
胸の中にある「それ」は、まさに『ぼんやりした不安』と呼ぶべき物だった。
明確な形なんて無い、ともすれば存在すらしないのかもしれない、そんな漠然かつ茫洋とした何かに名前が付いたことで、根が単純な僕はすっかり安心してしまった。
理解出来ないものも、名前を知ると安心出来てしまう。問題は何も解決していないのに、もう解決したかのように錯覚してしまう。もっとも僕の場合は解決すべき問題自体が、単なる思春期にありがちな錯覚だったので、文字通り問題なかったのだが。以上、回想終わり。
気持ちを切り替えようと、頬杖を突き、窓の外をぼんやり眺める。
窓近くまで枝を伸ばした校庭の桜はとっくに花を落とし、青々とした葉を茂らせている。梢から差し込む陽射しは暖かで、勉学に勤しむ真面目な生徒たちを眠りへと誘う。こんな日に屋上で昼寝をしたら、さぞ気持ちがいいだろう。
……屋上か。
昼休みに出会った先輩のことを思い出す。それから受け取ったタバコのこと。彼女は通行証と言っていた。果たしてどこの門を通るための物なのか……
「あー、羅生門といえば鬼が棲んでいたなんて話もあるなぁ」
教師の何気ない言葉に、意識が一気に授業に引き戻された。
一体どういうことだろう、この妙な繋がりは。まるで蜘蛛の巣に絡め取られたかのような気にさせられる。
(此は鬼退治の噺。刻が来たら話してやろう)
白い少女の言葉が甦る。
(せいぜい気を付けるがよい。鬼は人を騙すでのう)
鬼――なぜだかその言葉に、胸の中を掻き毟られるような焦燥に駆られた。言いようのない不安。何かを思い出したいのに、それが出てこないかのような不快感。それは「ぼんやり」などという曖昧なものではなく、確かに何か形があるはずの……
「このあたりの話は平家物語などに詳しく……おい、聞いてるのか冬杜」
「ひゃい!」
意識を引き戻す教師からの叱責。つい出てしまった間抜けな声に、クラスが爆笑に包まれた。
畜生。どうやら今日は厄日のようだ。こんな日は早く帰って、とっとと寝るに限る。
「あら、てっきり来ないかと思ってたのに」
昼休みと同じ踊り場で、とぼけた表情で彼女は言った。言葉とは裏腹に、まるで僕が来ることを確信していたような笑顔。何だか手の上で踊らされている気がして、つい憮然としてしまう。いっそ誘いに乗って僕がここで踊り出したら、この先輩はどんな反応をするのだろうか。そんな益体無い想像をして気を紛らわせようとする。
何で来てしまったのかは僕にも分からない。いや分かってる。ただその理由が何かを説明するだけの語彙力が、僕には苦しいほどに欠落しているだけだ。
「通行証は?」
先輩の問いに、ポケットから例の紙箱を取り出すことで答える。
先輩は前髪越しに箱をしばらく見詰めると、ふぅ、と疲れたような溜息を吐いた。
「実はね、それは通行証じゃないの」
「なんだと!」
「それは実はタバコという物なの」
「……いやそれくらい知ってるけど」
「それはタバコです」
「わざわざ中学英語の直訳みたいにしなくても」
「本当はタバコでもないんだけどね」
「……ん?」
不穏な言葉を問い詰めようとした矢先に、先輩がタバコ(?)に向かって手を伸ばした。
僕は取りやすいよう右腕を差し出す。
――その右腕に、
包帯で縛られた僕の手首に、
先輩の細い五本の指が絡み付く。
「大丈夫。通行証はちゃんと、ここにあるから」
指の食い込み具合から、先輩がかなりの力を込めていることが分かる。
それでも僕は何も感じない。壊れた右手は何も感じない。
先輩が包帯を凝視する。そうすれば包帯の下が透けて見えるとでも言うかのように。
先輩はどこまで知っているのだろうか。
この包帯の下、手首に遺る消えない傷痕のことを。
「これが通行証」
八重歯が覘く。舌先がチロリとそれを舐める。
前髪で隠れた瞳は、じっと僕の手首を凝視している。包帯で隠れた傷痕を凝視している。
まるで獲物を狙う蜘蛛の様に。
「ねぇ冬杜君」
蜘蛛が笑った。
「私を『向こう側』に連れて行ってよ」
一年前の話をしよう。
桜の季節だと言うのに、うだるように暑かった日。
高校の入学式を翌日に控えた日。
ざくり、と、手首を半ばまで断ち切った日。
手首を切った。
遊びやポーズとしてのリストカットとは違い、致命傷になり得る深い傷。笑えるくらいに血が噴き出し、笑う間もなく意識は飛んでしまった。
妹の通報で駆けつけた救急車ですぐに病院に運ばれ、一命は取り留めた。けれど骨まで達した傷は途中の腱や神経をすべて切断していたため、僕の右手は壊れてしまった。
目が覚めたら手術後。まったく感覚が無い右手。嘘みたいに存在が希薄で、まるでそこだけ神隠しに遭ってしまったような錯覚。ずっと付き添っていてくれたのだろう、ベッドの脇で眠る妹を見て、ああ、生きている、とぼんやりと思った。
そして麻酔が切れた後の激痛。眠ることも出来ず泣き続けた。痛みが落ち着くまでの三日間で、ようやく自分の右手が繋がっていることと、取り返しが付かないほど壊れてしまったことを理解した。
手術は成功――医者の言葉はとても信じられなかった。傷は馬鹿みたいに痛むのに、手首から先はまったくの鈍感だった。本当はあの時、右手は切り落とされていて、今ここにある何かは形を似せただけの作り物なのではないだろうか。そう思った。
どんなに力を入れても曲がらない、そもそも力が入らない。触れても何も感じないし、いくら抓っても痛くない。お湯に入れても熱くない。
機能障害と感覚障害――生物としての二つの重要な要素を失ったそれを、はたして手と呼んで良い物なのだろうか?
長い入院、退院後も続いた長く辛いリハビリ。痛みや焦りに耐え続け、それでも最低限の日常生活に耐えうるレベルに快復するのに半年以上かかった。未だに全快はしていない。おそらく今後も全快はしないだろう。握力は未だに一桁。単純な作業すら難しく、僕は左利きへの転向を余儀なくされた。
それでもどうにか明かりの見える運動機能に対して、感覚機能は絶望的だった。医者は何かの拍子に戻るかもしれないと言う。可能性は気休めでしかない。その証拠に、右手は一年が経った今でも、物に触れた時に感覚がない。痛みや熱も感じない。触覚は生物の基本的な防衛機構。それが働かないのは護る価値がないモノ──つまり壊れてしまったモノだ。やはり僕の右手は壊れている。
こんな壊れた手では、蜘蛛の糸を伝って登ることなど出来るはずもない。
何度となく怨む先を探したが、矛先は必ず自分に戻ってきた。自業自得である。
結局、僕に残ったのは手首の手術痕と戻らない握力、失った触覚、そして長期欠席した代償の留年措置――まあ命に比べれば、どうということの無いものばかりである。
意味のない回想は、先輩の言葉で霧散した。
「どうする? 通行証はこの通り。行くも返すもあなた次第。ここが境界線。くぐったら引き返せないよ。『この門をくぐる者、一切の希望を捨てよ』ってね」
「……羅生門でしたっけ?」
「ダンテの『神曲』だよ」
「地獄の門でしたっけ?」
「落書き曰く『ヘヴンズ・ドア』らしいよ」
「入口?」
「天国への入り口だね」
「出口?」
「どこかへ逃げたいの?」
どうだろう。僕は逃げたいのだろうか……
前髪の間から、じっとこちらを伺う不安そうな瞳。
それと似た瞳を、かつてどこかで見たような気がする。
「ねえ、どうするの? 冬杜大樹君」
再度の問い掛けに……僕は黙って頷いた。
「ありがとう」
満足そうに笑う先輩の顔は、お伽噺に出てくる魔女のように見えた。やはりシンデレラは僕の方だったのだろうか。
先輩の手が包帯から剥がれる。白んでいた手に、すぅっと赤みが戻る。
ああ、壊れた手でも血は通っているのだ。
カチリ
門番が退く音。重いはずの鉄扉は、思いの外、静かに開いていく。
眩むような日差しは、抜けるような青空へと変わる。
「ようこそ私の楽園へ。冬杜大樹君」
差し伸べられた手は、果たして救いの糸なのだろうか。
それが四月の半ば。よく晴れた日の出来事。
僕と尾花夏南との始まりだった。
第一章・終
◇◆◇ 作品の概要『蜘蛛の糸』 ◇◆◇
芥川龍之介による児童文学。おそらく氏の作品で最も有名な物の一つ。
地獄に堕ちた男を極楽から見下ろすお釈迦様は、男が生前に一匹の蜘蛛を助けたことを思い出し、地獄に蜘蛛の糸を垂らす。男は糸を伝って極楽へ上ろうとするが、他の亡者がついてくるのを見て、この糸は俺の物だと叫ぶ。とたんに糸は切れ、男は再び地獄に堕ちていく。
色々とツッコミどころはあるが、個人的には「お釈迦様は男を救う気があったのかどうか」が最大の論点であると思う。