5 或いは 挿話 『蛇』
み付ける。何度も何度も。踏み付ける。けれど強靱な皮は破れることを拒み、弾力に富む肉は潰れることを拒み、硬い骨は砕かれることを拒む。踏み付ける。皮は僅かに破れ、肉は僅かに潰れ、骨は僅かに砕かれる。踏み付ける。裂け目から肉が覗く。踏み付ける。臓器が潰れる。骨が飛び出す。踏み付ける。鱗が擦れ剥がれる。踏み付ける。執拗に。踏み付ける。幾度となく叩きつけた踵は痺れ、擦れ、皮が破れ、血を流している。踏み潰す。何度も。踏み潰す。何度でも。踏み潰す。命を奪うために。踏み殺す。決して。踏み殺す。二度と。踏み殺す。甦らぬように。
影絵の世界で不器用なステップを踏むシルエット。
いつからだろう。僕はそんな間抜けな僕の姿を、遠くから眺めていた。
その姿があまりに間抜けだったので、悪いとは思いつつ笑ってしまった。
不思議な物で、大して面白くもないはずなのに、一度笑い出すと、これがどうしてなかなか止まらない。堪えようとすればするほど笑いが込み上げてきて、ついには腹を抱えて笑い出してしまった。
そうして涙を流すほど笑って、笑い疲れて溜息を吐いて、ゆっくりと目を開くと――
――足下に、蛇が居た。
「そうは言うがな冬杜君。分かるだろう? この部屋は暑いのだ。ならば脱ぐのが道理だろう」
部長の矢代さんは悪びれもせず、それどころか僕の非を責めるかのようである。
はたしてこの場合、悪いのは僕なのだろうか。僕なのかもしれない。いや、僕なのだろう。
「ふふっ。部長もああ言ってることだし、見ておかないと損だよ冬杜君?」
後ろで笑うカナミさんがウザったい。
蛇の甘言には耳を貸さず、視線を逸らしたまま僕は言う。
「服を来て下さい。お願いします」
「……そこまで言われては仕方がない。新入部員に早々に退部されては困るからな」
渋々といった風に部長が動き出すのが分かる。
立ち上がる音。衣擦れの音。耳から這入り込む様々な音が、僕の脳内に鮮明な映像を浮かび上がらせる。
「ほら、冬杜君。これでいいだろう」
しばらくあって聞こえた部長の声で、脳内の映像が霧散した。
ふう、これでようやく――
――生足だった。
が首もとを捉えた。口が大きく開き、血塊が噴き出る。けれど踏み続ける。長い身体をのたうち回して、逃れようと足掻く。生き延びようと足掻く。足の無い身体で蛇が足掻く。
「ふむ。野党でもなく、夜叉でもなく、死霊でもなく、よもや噺に姿を見せぬ『蛇』に鬼を見るとは。くふ。御主も随分と捻くれておるのう」
遠くで白い少女の声がする。
違う。少女はすぐ隣で喋っている。遠くにいるのは僕だ。遠くにいる僕は、何度も何度も蛇を踏み付けている。そんな僕を見て、僕は言いようのない不快感に見舞われた。
「曰く、鬼とは賊のことである。極めて分かりやすき解釈よの。曰く、鬼とは狂いし女である。成る程、そのような噺も多い。曰く、鬼とは死して尚此の世に留まる魂魄である。元来『鬼』という字が表すのは、左様な物らしいのう」
少女が笑う。遠くで笑う。僕は蛇を踏んでいる。
「然れど、御主は蛇に出逢うた。藪を突き、蛇を出した。普通は出てくる物ではないが、御主はそれ程までに、人と出逢うのを厭うておるのかえ?」
くふ、と笑う。
「どうやら御主は、欠落しておるのう」
「なんで下を履いてないんですか!」
部長の服装には大事な物が欠落していた。具体的に言うとスカートが足りない。
恥じらうことなく言い放つ部長は、ワイシャツを羽織っただけ。いわゆる裸ワイシャツだ。
「失礼な。人を露出狂のように言わないでくれたまえ。先程からちゃんと下着を履いている」
「そうじゃなくて!」
慌てている僕の方がおかしいのかと錯覚させるほど、部長は堂々としている。丈があり前も閉じているので一応大事な部分は隠れているが、太腿の付け根近くまでバッチリと見えていて、ある意味で下着姿よりも扇情的である。
「そうですよ部長、何ですかそのお子様パンツは! 今日はあのショーツを履いてきて下さいってメールしといたじゃないですか!」
「そうじゃねえよ!」
見当違いの怒り方をするカナミさんを怒鳴り付ける。と言うか、何をメールしているんだ何を!
「ああ、一緒に買い物に行った時にキミが無理矢理買わせた紐のようなアレか。言いたくはないが、あんな物を履くのはキミくらいだぞ、カナミ君」
「言っておきますが、貴女も大概ですよ!?」
なんだこの部は。気象部と聞いていたが、痴女部の間違いだったのか?
した。殺した。間違いなく殺した。僕の足の下には、息絶えて肉塊と成り果てた蛇がいる。それなのに何で目の前には蛇がいる? 踏んでいるのは誰で、踏まれたのは何だ。殺したのは誰で、殺されたのは何だ。呑み込もうとしているのは何で、呑み込まれようとしているのは誰だ。
それは蛇で、それは僕だ。
「蛇の不死性は今更説くまでも無かろう。洋の東西を問わず、古来より蛇は死と再生の象徴である。脱皮する姿を転生に準えるとも言うが、四肢無く動き回る時点で既に不死の体現であろう」
蛇が僕を呑み込もうとしている。僕が蛇を踏み殺そうとしている。
それを眺める僕は誰だ? 僕は何だ?
「『鬼』も又然り。鬼退治の噺は数多あるが、腕を斬られ、首を斬られ、それでも鬼は死なぬ。死して尚動き、人を襲い、人を喰らう」
僕が蛇を踏み殺す。
それを眺める僕の足下には蛇がいる。
僕が蛇を踏み殺す。
それを眺める僕の足下には蛇がいる。
己の尾を呑み込んだ蛇のように、ぐるぐると回り、どこへも辿り着かない無間地獄。
「だが、鬼を語るに其れでは足りぬ。蛇と鬼を繋ぐは其所に在らず」
大きく溜息を吐く。
「……やっぱり教室に戻ります」
そうだ。ここにいてはいけない。
おかしい。さっきから視界が明滅する。さっきから思考が明滅する。暗転は一瞬。暗闇では何も視えはしない。ただ不快感が残るだけだ。
フラッシュバック。差し込まれる闇。影絵の世界。
まるで盲点に差し込む映像だ。人の目の構造上、決して見ることが出来ない暗黒点。
知覚し得ぬ物は存在しないも同然だ。だから気にする必要など無い。
フラッシュバック。うるさい。
「ここの空気は僕には合いそうにありませんし」
眉を顰める部長に愛想笑いをする。
フラッシュバック。うるさい。
そうだ、これは単に慣れない場所、慣れない状況に戸惑っているだけだ。
フラッシュバック。うるさい!
教室に戻って、ゆっくりと休もう。
踏むのに疲れ、ふと顔を上げれば、その先では僕が蛇を踏むのを止めて顔を上げている。
その視線の先には恐らく僕の姿があるのだろう。その先にも、その先にも、その先にも。
僕を含め、都合二十三人の僕。
「此は鬼退治の噺。故に此は挿話に過ぎぬ」
そう言えば芥川は、ドッペルゲンガーを見たことがあると語ったという。
恐らく作り話であろう。自身までをも創作物の一部かのように振る舞った人物だ。
あるいはも本当に見たのかもしれない。それは幻覚や見間違え、妄想、錯覚――
しかし、こうして体験してみると……なるほど、これは何らかの錯覚だと分かっていながら、本物だと信じてしまいそうになる。
「蛇はその姿が、その生態が特異である。だが鬼に絡めて語るならば、その性質の特異さを語らねばなるまい。他の蟲とは大きく異なる、その性質を。――ふむ?」
ドッペルゲンガー。
説明は不要だろう。自身と同じ姿をした、もう一人の自分。
自分のドッペルゲンガーを目撃してしまうと……
「御主、先程から何を呆けておる。我の噺は其程に退屈かの。然し左様に隙だらけでは――ほれ」
「そっか……ごめんね。むりやり連れてきちゃって」
哀しそうな声が聞こえる。
横を向くと、俯いたカナミさんの姿。ただでさえ長い前髪が、顔全面を覆っている。
前髪が、視界を遮る。
そんな不安そうな姿はカナミさんらしくない。
フラッシュバック。視界が一瞬眩む。差し込まれる記憶できない映像。記憶できない体験。
「いえ、そういうわけでは……」
しどろもどろに言い訳をする間にも、脳はチカチカと明滅を繰り返している。
「気象部は嫌い?」
不安そうな声が聞こえる。
チカチカチカ。明滅。場面転換。視界が変わる。
「いえ、別に嫌いというわけでは……」
不連続な意識の中で、なんとか口を動かす。
チロチロチロ。暗がりで何かが舌を伸ばす。
「そこはちゃんと答えて欲しいな」
不連続な意識の中に手を伸ばし、答えを探そうとする。
カサカサカサ。暗がりで何かが蠢く。
さっきから煩い!
視界も定かではない中で、手探りで伸ばした指先に何かが触れた。
触れた?
僕の右手が?
壊れた右手が『触れた』などと感じるはずはない。
明滅する意識に現れる一瞬の暗闇に伸ばした手。
藪の中で触れた、その感触は――まるで鱗のようで――
電源が落ちたかのように意識が沈む。今度はフラッシュバックではない。
ただ、静かに、深く、影絵の世界へと落ちていく。
「『――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、真っ逆様におれを吹き落とそうとする。』」
ガランとした屋上には僕と蛇しか居なかった。
他の僕は居ない。ドッペルゲンガー達は姿を消し、僕だけが残っている。
だが、それももう終わる。
ぼんやりとした影絵の世界で、一際濃い闇。
「『――わたしは其所へ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。』」
視界一杯に広がる闇が、大口を開けて飛びかかって来る大蛇だと気付いた時には、
「…………あー、なんか、前にもこういうことあったよな」
そんな間抜けな言葉が最期。
僕は、
頭から、
蛇に、
呑み込まれ――
「冬杜君は今、私と話してるの。さっきからチョロチョロと邪魔しないでくれる?」
――光が弾けた。
沈みきっていた意識が、光の圧力に押し上げられる。
「……あれ?」
明滅を繰り返していた意識が、不思議なほどにクリアになる。
だが逆に思考は固まる。
白い肌。
光の眩しさに目が眩む。目を奪われる。
まるで蛇が大口を開けるかのように、カナミさんが黒く長い前髪を掻き上げている。
初めて露わになったカナミさんの素顔。
その右目は、真っ直ぐに僕を射貫き、
その左目は、ここではない何処かを睨んでいた。




