1
「何の為にこいつも生れて来たのだろう? この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。
――何の為に又こいつも己のようなものを父にする運命を荷ったのだろう?」
(芥川龍之介『或阿呆の一生』)
開館前の図書館は、霊廟のように閑かだった。
古紙特有の湿った匂い。規則正しく並ぶ書架の列。天窓から差し込む陽射しは不十分で、あちこちに仄暗い闇を残している。
けれど、そんな暗がりの中でも見間違えようが無いほどに――
その少女は白かった。
時代錯誤な白装束から伸びる手足は病的に細く、貼り付いた肌は不健康なまでに白く、絹糸のような白髪は小さな背を覆い、そして少女の顔の上半分――瞳があるべき場所は、幾重にも巻かれた白布で、堅く塞がれていた。
全身隈無く白尽くめで、そしてまた、少女の纏う空気が白かった。
それは白が持つ清廉さや純粋さといった透き通ったイメージとは対極にある、ある種の不安を掻き立てる白さだった。喩えるならば深い霧の白。境界があやふやで、存在が不確かで、けれど触れた皮膚からじっとりと染み込むような、そんな淀んだ白さだった。
そういった諸々を含め、改めて言うならば、やはりこうなる。
その少女は白かった。
現実味などまるで無い、けれど彼女は確かにそこにいた。
少女は書架の脇に置かれた椅子に腰掛け、膝上に開いた本を細い指先でなぞっていた。点字などではなく、ごく普通に印字された本だ。触れた所でインクの厚みなど感じ取れるはずもない。それでも目を塞がれた少女は、封じられた瞳の代わりに、細い指先で確かにその本を読んでいた。
どれだけの間、その姿を眺めていただろうか。ふいに少女が顔を上げた。
「ふむ、誰ぞおるようだが」
見た目に似合わぬ、妙に低くて深みのある声。
布に覆われた瞳が、馬鹿みたいに呆けていた僕を射貫く。気圧されて思わず後退りする僕を見て、少女は微かに嘲笑った。
少女は再び口を開き、時代がかった口調で、ぽつりぽつりと語り始める。
「やれ気の早い奴よのう。まだ役者は揃うておらぬ。しばし待つがよい」
状況も分からなければ、少女の話す話の内容もまた理解できなかった。
「気にするでない。所詮は童どもの戯れに過ぎぬ。ほれ、御主にも覚えがあるであろう。『もういゝかい、まあだだよ』などとのう」
何が可笑しいのか、少女はくつくつと笑う。
「お前は……何だ」
ようやく絞り出した問いに、少女は答える。
「何だとは高く買うてくれたものよ。応えたくはあるが、さりとて答えるは容易ではない。我は光を知らぬ盲であり、噺を糧とする一介の語り部である。名乗るほどの名を持たぬ卑しい出自で、まだ月の物も来ておらぬ十を越えたばかりの小娘よ。これで満足かの」
問いは霧を一層深めるだけだった。
困惑する僕を置いてけぼりに、少女はなおも続ける。
「此は鬼退治の噺、刻が来れば話してやろう。それまでは大人しくしておれ。なに、短い噺ゆえ、始まりさえすれば、終わりはあっという間よ」
会話の終わりを示すように、少女が本を閉じる。
「ではまた逢おうぞ。せいぜい気を付けるがよい。鬼は人を騙すでのう」
くふ、という笑い声を残し、少女の姿は薄闇の中にぼんやりと溶け消えた。
椅子の上には、彼女が読んでいた本だけが残されている。
近付いて手に取ってみると、それは有名な文学者の全集で、開かれたページは地獄の底に差し伸べられる、救いの糸の話だった。
天井を見上げてみるが、そこには銀色の糸などぶら下がっているはずもなく、ただ乳白色の天窓から、淡い光が差し込むだけである。
無意識に右手を差し伸べ、ゆっくりと握り締めた。
当然、そこには何の感触もない。
……まあ、長い人生、こういうこともあるのだろう。
「すまんな冬杜、朝から仕事を頼んで」
職員室に行くと、目的の人物――鵠沼先生は左奥の自席で、ちびちびと不味そうにコーヒーを飲んでいた。毎度思うのだが苦いなら砂糖を入れればいいのに。
僕の視線をどう勘違いしたのか、先生は真面目な顔を作って腕組みをする。
「そう責めるな。別にお前に仕事を押し付けてサボっていたわけではない。どうしても外せぬ急ぎの用件があってな。つい先ほど終えて、ようやく一息を吐いていたところだ。……本当だぞ?」
いかにも言い訳めいた付け足しが、嘘っぽさの駄目押しだった。
「別に構いませんけどね」
過ぎた事は気にしないのが僕の信条だ。慌ただしい現代社会を生きる者にとって、問題なのはいつだって過去ではなく現在である。そう、目下の大問題は、目の前に聳える雄大な山脈だ。具体的に言えば先生の胸元である。下品かつ直接的に「鵠沼先生のおっぱい」と言い換えた方が、より危険性が伝わるかもしれない。ただでさえ男子生徒を惑わす巨大なそれは、腕組みなんかをして下さったせいで、これでもかと強調されている。それを包み込んでいる春用ニットセーターも、ぐにっと引き延ばされて、ボディラインを際立たせるエロ衣装と化している。この淫乱女教師め。まったくもってけしからん。
「おい冬杜」
「なんでしょうか、鵠沼先生」
「凝視し過ぎだ馬鹿者」
臑を蹴られた。かなり痛い。はたしてこれは体罰と見るべきか、それともご褒美と見るべきか、他の男子生徒の意見を募りたいところである。ちなみに僕は後者に一票。
「言っておくが見物料は高いぞ。本来なら反省文ものだが、今回は仕事の駄賃でチャラにしておいてやる」
「……ありがとうございます」
仕事というのは図書館への本の返却のことだろう。そもそも何で品行方正な僕が朝から職員室に来たかと言えば、その仕事の結果報告と、図書館の鍵の返却のためだ。
今から二十分ほど前。僕は登校するなり先生に捕まり、本の山と鍵を押し付けられた。
先生からのお言葉はただ一言。
「行け」
好意的に意訳するのならば「私の代わりに図書館にこの本を返してきて欲しいの。お・ね・が・い♪」といったところだろう。急なお願いだったが、先生には去年色々と面倒を見て頂いた借りがあるため、僕に断る権利など無い。そうでなくとも、このおっぱいにノーと言える男子はいまい。いたらそいつはホモだ。
ともあれ先生から仰せつかった仕事は無事に終了。予鈴まであまり時間も無いし、名残惜しいがそろそろ教室に行くべきだろう。
そんな僕に気持ちを見透かしたかのようなタイミングで、先生の質問が飛ぶ。
「どうだ冬杜、学校にはもう慣れたか?」
……恐らく本の返却などという仕事は会話をするための口実で、本題はこれだったのだろう。
「ええ。楽しくやってます」
正直に答えたのだが、なぜか先生は不愉快そうに眉をしかめた。
「まあいい。困ったことがあったらいつでも相談に来い」
それは思春期の男子生徒的に最大の悩み事である下半身方面の相談でもいいですか? ……などと軽口を叩くほどの度胸はない。区切りも付いたので今度こそ去ろうと思ったが、その前に。
「相談ではなく、ちょっとした質問なんですが」
「何だ?」
「うちの図書館って、生徒や教師以外も使えますか?」
「いや部外者は利用できないな。あれだけ立派な施設を開放しないのは勿体ないが、まあ近頃は何かと物騒だし、仕方ないだろう」
そうか。ならば……
「あともうひとつ。馬鹿な質問ですが、先生は幽霊っていると思いますか?」
「……冬杜。私の担当教科を知ってるか?」
「物理です」
「それが答えだ。分かったら、とっとと教室に行け」
鵠沼先生の、そんな素っ気ないところが僕は大好きです!
今朝は図書館で何だか変なのに遭遇した気もするが、もはやそんなことはどうでもいい。僕の脳内は、いまや鵠沼先生からの愛に溢れた罵倒で一杯だ。廊下ですれ違った女子生徒が、僕の顔を見て「ひっ」と蜘蛛でも見たかのような悲鳴を上げたが、それすらも気にならない。
そんな具合に浮かれきっていたため、教室に入った途端に天国から地獄へ真っ逆さまな目に遭うとは思いもしなかった。きっと蜘蛛の糸が切れた瞬間のカンダタも、こんな気持ちを味わったに違いない。
「ぐっもーにん、大樹っ!」
「おぐっ!?」
この「おぐっ」を発声する際は、下あごに力を入れながら唇を窄め、喉の奥から絞り出すよう一気に息を吐き出して欲しい。上手く発声できない場合、不意打ちでチョークスリーパーを掛けてもらうと良い。頸動脈を狙うスリーパーホールドではなく、気管を狙うチョークであることに注意されたし。あと良い子は絶対に真似しないこと。
「どうしたんだよ大樹ぃ、遅せえじゃんか、待ちくたびれたじゃんか」
「~~~~っ!」
「通学途中で野垂れ死んだんじゃねえかって心配したんだぜ?」
「~~~~~~~~っっ!」
「俺に黙って死ぬなんて許さねえからな。分かってんだろうな、そこんとこ」
「……っ、…………っ!」
黙ったまま死ぬのは僕としても遺憾だが、声が出せないのだから仕方がない。首にがっちりと絡みついた蜘蛛の様な腕が、頭と胴のアクセスを全遮断する。酸素を止められた脳に鈍い重みが広がり、血液が冷水へと変わっていく。左手はジンと痺れるのに、こんな時でも右手は無表情で……あ、駄目だこれ。落ちる……
「――っぷはぁっ!」
危ない大丈夫だまだ落ちてない。
墜落寸前で拘束は解け、夢中で呼吸を繰り返す。息を吸い込む度に体中に新鮮な血液が巡るのが分かる。教室の空気を美味いと思ったのは初めてだ。
ひとしきり呼吸に専念する間も、背中に寄りかかった重みはそのままだった。両肩の上からでろんと垂れ下がる腕は、隙あらばまた獲物に喰らいつこうという意志が満々だ。
「おぶさりてえ」
「いい加減に離れろ、この妖怪」
「ねぇパパぁ、おんぶしてぇ」
「キめぇっ!」
背中の変態を振り払う。確認したくもないが嫌々振り返ってみると、そこには案の定、バカがいた。
百八十近い長身に、ジャージの上からでも分かる細長い手足。朝からジャージ姿なのは、別に朝練があったからでも一限が体育だからでもなく、いつものことである。入学式にもジャージで参列したと言えば、こいつがどれほどのバカかは分かってもらえるだろう。そんなバカとは出来れば関わりたくないが、残念なことに、このバカは中学時代からの僕の悪友であり、名を秋茜千秋と言う。
千秋は首を絞めたことを悪びれもせず、どころか何故か憮然とした表情で僕を睨む。
「つうか大樹。お前さぁ、首締められたら少しは抵抗しろよ。そのうちマジで殺されるぜ?」
「なんで僕が説教されてるんだよ。説教すべきは僕で、千秋は謝る立場だろ」
「ん? ああそっか、悪りぃ」
ちっとも反省の色が見えない千秋を睨み返すが、その程度で改心する奴じゃないのは重々承知だ。こいつを反省させるには、もっと野生動物を躾けるような物理的な矯正が必要である。たとえば……
「まあそんな怒るなって大樹。無事だったんだから良かったじゃねぇ――がっ!」
この「がっ」は勢いよく首を前に折り、息を飲み込むように発声して欲しい。上手く発声するコツは、後頭部を鈍器で強打することだ。一限目に使う英和辞典を用いるのは最適解の一つだろう。良い子は真似しないように。と言うか、いつから僕ら一年三組の教室はハードコア戦の会場になったんだ?
断っておくと、僕は自分と向かい合ってる人間の後頭部を殴るスキルは有してないし、暴力に訴えるのも苦手である。ならば犯人は誰か。答えは三秒後。
「痛ってぇ。てめっ何をしやが……っ!」
強襲者に文句を言いかけた千秋の身体が瞬時に強張る。そりゃそうだろう。目の前に鬼がいたら誰だってビビるものだ。相手の背は千秋の胸程までしかないのだが、そこには身長差を補ってなお余りある威圧感があった。
「千秋さん。ご存知とは思いますが、私は他人を傷つける愚か者が大嫌いです」
バカを襲った鬼は、一音一音はっきりと、馬鹿な教え子に諭すように語り掛ける。言葉使いこそ丁寧だが、それはある種の命令だ。問題児の千秋を止められるクラスで唯一のストッパー。おさげの三つ編みに黒縁眼鏡がトレードマークで、誰が言い出したか「委員長」こと柳北佳織様の御降臨である。
騒ぎに気付いた教室内の誰もが見守る中、はたして勇敢か無謀か、千秋が怖々と委員長様に反論をする。
「いや、傷付けるのが嫌いって……佳織ちゃん、俺のこと思いっきり殴ったよね?」
「言い訳する愚か者も大嫌いです」
「「暴君だ!」」
思わず僕までハモってしまった。
委員長はズレてもいない眼鏡を正すと、冷たい視線で言い返す。
「愚民どもには圧政がお似合いかと」
「「ひどい!」」
委員長様は今朝も絶好調である。て言うか愚民「ども」って、もしかして僕も含まれてませんか?
そんな疑問を浮かべる僕の隣で、千秋が震え出す。暴君の暴言に対して怒りに打ち震えて……というわけではなく、
「俺は……佳織ちゃんの、そんな素っ気ないところが大好きだぁ!」
どこかデジャビュを覚えるセリフを吐きながら委員長に抱きつこうとしたバカが、再び脳天に辞典の一撃を受けて昏倒する。直後に来た担任教師は、床に転がる千秋を一瞥すると、何事もなかったかのように出席を取り始めた。
そうして今日も、いつも通り授業が始まる。
早いもので四月も既に半ば。入学式から既に半月が過ぎようとしている。教室内も初めの頃の怯えたような緊張感は薄れ、どこかのんびりとした雰囲気が漂っている。左手でとるノートは多少ストレスを覚えるが、それもじきに慣れることだろう。
びっくりするくらいに平和で、拍子抜けするほどに平坦な日常。
でも僕は、その日常を大事にしたいと思う。天国のように幸せなこの日常を。
だから救いの糸など必要無い。
むしろアレだ。訳知り顔で大上段から救いの手などを伸ばしてくる奴がいたら、そのアルカイックスマイルをぶん殴ってやらなきゃ気が済まない。
聞いた話によると、なんでも奴らは二発までなら殴っても構わないらしいし。
「んあ? なんだ大樹ぃ、昼飯食わねえの?」
「ちょっと仏様をぶん殴ってくる」
「そっか頑張れよ。保健室は東棟の一階だぜ。脳外科はやってねえだろうけど」
昼休みになるなり、僕は千秋の誘いを断って教室を出た。
念のために断っておくと、別に本気で仏様の御尊顔に拳を叩き込みに行こうと思ったわけではない。
色々と自分に嘘を吐き、誤魔化してはいたけれど、今朝の図書館での出来事は、十七年間ごく普通に生きてきた僕にとっては許容できない事件であり、ここらで一度、今朝の出来事を一人で静かに整理しようと思ったわけである。
こういう時、普段ならば図書館を利用するのだが、間違ってまたあの白いのに遭ってしまったら今度こそ発狂しかねない。一度なら錯覚で誤魔化せるが、二度続けば真実だ。三度続けば仏様でも黙っちゃいない。
ではどうするか。
保健室。昼休みは女子の溜まり場だ。トイレ。飯時に冗談じゃない。体育館裏。昔の不良じゃあるまいし。部室。あいにく帰宅部だ。体育倉庫。いつか起こるであろうエロイベントのために取っておこう。
「ふむ」
候補を挙げては消し、消去法の末に残った場所は、意外な盲点というか当然の帰結というか、ともあれ我ながら上出来なチョイスだと思う。
昼休みで活気づく生徒たちの波をかき分け、階段を昇り、僕は意気揚々とその場を目指した。