セレンと仮面の後継者(5)
三人が同時に飛び上がった。甲板に降りる。船体は木で出来ていた。帆柱はあるが帆はなかった。サリュースが手すりの光の玉に手を近づけた。熱くはない。
「これが飛ぶのか」
イージェンが船室への入り口に向かった。
「そうだ、俺の魔力でな、こいつでティケアに向かう」
これほど大きな物を飛ばすところはヴィルトでさえも見せなかった。船室に入ると灯りが自然と点った。
「大魔導師の魔力を誇示するつもりか、そんなことしたら余計に反感を買うぞ」
サリュースが不愉快そうに言った。操舵管があるところから艦橋のようだった。イージェンがその操舵管に触れた。
「別に誇示するつもりはないが、大勢で行くからこいつを使おうと思って」
「大勢って…」
サリュースが戸惑った顔を向けた。ポゥっと音がして操舵管が点灯した。舳先の方向で石同士が擦れるような大きな音がした。エアリアが、ガラスの窓から前方を見た。小さな振動がして巨大な石の扉が開いた。暗闇の洞門に繋がっていた。
「どこまで行ってるんですか」
エアリアが振り向いて尋ねた。イージェンが操舵管の前にある板に触れた。すると、ガラスの窓の前に緑の透き通った幕のようなものが現われた。白い筋がいくつも書かれている。地図のようだった。
「赤い点が今いるところだ。まっすぐ東に向かっている白い筋がその地下の道だ、東の谷の腹に出ることになるな」
この一年エスヴェルンの各地を回って、だいたいの地形や州都の様子など頭に入っていたが、ヴィルトの記録と照らし合わせてもほとんど同じだった。
三人はスケェィルに戻ってきた。イージェンは『空の船』の灯りをつけたままにして、格納部屋へのふたつの扉を閉めなかった。
「俺が連れてきたふたり、ヴァンとリィイヴにも手伝わせて、七、八人前の食料と水、十日分、寝具を積み込ませておけ」
サリュースが驚いて問い質した。
「七、八人前って、いったい誰を連れて行くつもりなんだ」
イージェンがそれには答えず、ヴィルトの部屋に一度戻って着替えてくると言った。
「そろそろ執務宮に行ったほうがいいだろ?」
サリュースとエアリアも謁見のための着替えをしてくることにした。といっても、サリュースはともかく、イージェンとエアリアは身体をすっぽりと覆う頭巾付きの外套で身を包む魔導師の装束の形に変わりはない。
三人は馬に乗って執務宮に向かった。馬上でイージェンがサリュースを鞭で突付くようなしぐさをした。
「そういえば、学院長職を一時解かれているんだったな」
サリュースがぷいと横を向いた。
「おまえのせいだ」
「俺のせいにするか、だったら、復職はまだ先だな」
サリュースは肩で息をした。いちいち反応していたらこの先身が持ちそうになかった。しかし、一言だけ言っておかなければ。
「一応言っておくが、くれぐれも陛下や閣下たちに乱暴な口を聞くんじゃないぞ」
イージェンがまるで鼻先で笑い飛ばすように仮面の顎先を上げた。
執務宮の門前両脇の衛兵が槍を交差させた。三人は馬を降り、門をくぐった。重い扉が両側に押し開かれた。玄関広間から奥に進み、国王の執務室の前まで行った。執務室前の控えの間に、リュリク公とヴァブロ公が待っていた。
サリュースが丁寧にお辞儀をし、イージェンを示した。
「リュリク公閣下、ヴァブロ公閣下、こちらがヴィルトの後継者イージェンです」
イージェンがふたりを見回した。リュリク公は現国王の父方の従兄弟、大公家の中でも筆頭格で、王立軍大将軍だ。冷徹な意志の持ち主で義を重んじる。ヴァブロ公は亡き王妃の伯父、法務長官であり、温厚な人柄と博識で知られている。
イージェンが軽く頭を下げた。
「カーティア学院長のイージェンだ、大魔導師ヴィルトより仮面を継承し、後継者となった。今日は挨拶だけにするが、後日膝を交えて今後のエスヴェルンについて話し合おう」
「イ、イージェン!おまえ、さっき言ったばかりなのに!」
サリュースがあわててたしなめた。ふたりは王族の親戚で宮廷の重鎮だ。礼儀を逸するような振舞いは許されない。
「カーティアではこんなことで文句は言われない、逆にセネタ公は俺にひざまずいて挨拶するぞ」
リュリク公とヴァブロ公が驚いた顔を見合わせた。リュリク公が言った。
「セネタ公閣下はお元気か。久しくお会いしていないが」
若い頃、エスヴェルンとカーティアが緊張状態になったことがあり、そのときに国境をはさんでにらみ合ったことがあった。なんとか開戦に至らずに済み、和議の席では意気投合して酒を酌み交わした。その後、セネタ公は先王の勘気に触れて中央から遠ざかったのだ。
「ああ、元気だ。新しい国王陛下を支えて国を一新すると張り切っている」
リュリク公が片膝を付いてお辞儀した。ヴァブロ公もあわてて続いた。
「大魔導師イージェン様、王立軍大将軍リュリクでございます」
リュリク公が丁寧に挨拶した。ヴァブロ公も頭を下げた。
「大魔導師様、法務長官ヴァブロでございます、どうかエスヴェンの力となってください」
サリュースが申し訳なく顔を伏せた。
「おふたりとも…」
イージェンが立つよう言い、両手で仮面に触れた。
「さて、国王陛下にご挨拶するか」
執務室への扉を護衛兵が開いた。リュリク公とヴァブロ公が先に入り、それに続いた。
執務室には国王の座る大きな椅子があり、必要に応じて机や椅子を設置することがあるが、今日はなにも置かれていなかった。国王は椅子に座り、書面に眼を通していた。みなが入ってきたことに気づき、書面を側のテーブルに置いて立ち上がった。
「陛下、ごきげんよう」
リュリク公、ヴァブロ公、サリュース、エアリアがひざまずいて挨拶した。サリュースが気になってちらっと横を見ると、イージェンは立ったままだった。あわてて外套の裾を引っ張ろうとしたとき、イージェンが片膝を付き、深く頭を下げた。
「国王陛下、大魔導師ヴィルトの後継者となりましたイージェンです。英明の誉れ高きエスヴェルンの国王陛下にお目にかかれまして、光栄に存じます」
サリュースが仰け反りそうになった。この男のどの口からこんな礼賛がでるのか。
国王は寂しげな笑みを見せた。
「ヴィルトの逝去は悲しいことだが、こうして後継者を残してくれた。ありがたいことだ。イージェン、そなたにはこの国の力となり、エスヴェルンを守ってほしい」
イージェンは仮面を伏せたまま応えた。
「陛下、ヴィルトのもっとも愛した国エスヴェルン、力尽くしてお守りいたします」
国王が涙を流し何度もうなずいた。立つように言われ、全員が立ち上がった。イージェンが一歩前に出た。
「陛下、お願いがございます」
サリュースが御前にもかかわらずぎょっとこわばった顔をしてしまった。何を言い出すのか。
「これから五大陸総会に出席するために三の大陸ティケアに向かいます。是非王太子殿下にほかの大陸を見ていただき、見聞を広げてほしいので、同行をお許しください」
エアリアが目を見開いてイージェンを見つめた。国王が少し下を向いて考え込んだ。サリュースはまた騒動になると困るので拒否してほしかった。
逡巡しているようなので、反対しようとした。ところが先に、リュリク公が言った。
「陛下、ほかの大陸を訪問するなど、王太子殿下にとってもまたとない機会。大魔導師様はじめ、学院長やエアリア殿も一緒なのですから、安心して任せてよいのではありませんか」
リュリク公が賛成してしまったので、サリュースは反対できなくなった。国王もようやくうなずいた。
「確かに。三方がいれば安心だ。余は一度東バレアス公国を訪なった以外、国を出たこともない。王太子には是非見聞を広げてきてほしい」
イージェンが胸に手を当ててお辞儀した。
「ありがとうございます、陛下」
国王執務室を出て、重臣たちの控室に向かい、紹介された。イージェンは、長々とした重臣たちの挨拶にも最後まで丁寧に応じていた。
ようやくリュリク公やヴァブロ公、サリュース、エアリアとともに控えの部屋に入ると、どっかりと長椅子の端に腰を降ろした。
「後は五大陸総会から戻ってからだな」
ふところから袋を出した。従者にその袋を渡し、みなに茶を入れるよう言った。
「俺が精錬した茶葉だ」
芳醇な香りと味わい、そして何より飲んだとたん、身体の疲れがすっと消えていった。茶にはいささかうるさいヴァブロ公が感心してうなった。
「うーん、これは見事な」
従者が茶葉の袋をイージェンに返そうとしたのを押し留めるようにした。
「あとで陛下にもお出ししてくれ、いいですよね」
ヴァブロ公がイージェンを見た。イージェンがうなずいたので、従者にそのまま袋をもって下がらせた。
「王太子殿下にヴィルトのことは言ったのか」
イージェンが誰ともなしに尋ねた。サリュースがゆっくりと茶をすすって言った。
「まだ拘禁中で、お知らせしていない」
イージェンが仮面をエアリアに向けた。
「エアリア、おまえがいってこい」
エアリアが手元の茶碗に目を落とした。つらい役目である。自分ですらまだ心の整理ができずにいる。落ち着いて知らせることができるか自信がなかった。その迷いを感じてイージェンがきつく言った。
「おまえが言わずして誰が言うんだ」
その言葉に頭を叩かれたエアリアがきっと顔を上げた。
「はい、行ってまいります」
ヴァブロ公は正式な釈放の命令書は後で持っていくことにして、先に面会の許可書を書き、エアリアに渡した。エアリアがそれを持って出て行った後、ふたりを会わせたくなかったサリュースがイージェンをにらみ付けた。
「殿下とエアリアを会わせたくない。ティケア同行も賛成したくないんだぞ」
イージェンが首を振った。
「ヴィルトはあのふたりの育ての親のようなものだったのだろう?カーティアで預かったときに子どものころの話をしていた。ふたりでいたずらしてヴィルトに怒られて芋の皮むきをやらされたってな…どれほどにヴィルトがふたりを大事にし、ふたりがヴィルトを慕っていたかはわかっている、だからこそだ」
サリュースが唇を噛んだ。もちろん、自分にとっても育ての親なのだ。急に様々なことを思い出されてきた。嵐が怖くて震えていた幼子の頃、ずっと側で添寝をしてくれていた。修練の厳しさに耐えかねて倒れたとき、叱りながらも背中を擦ってくれた。
「ぐっ…ぅっ…」
口元を押さえて懸命に堪えた。イージェンがサリュースの腕を取って立たせた。
「ヴァブロ公、先に牢屋に行っているから、釈放の命令書、届けさせてくれ」
ヴァブロ公が了解し、リュリク公とともに立ち上がって頭を下げ、ふたりが出て行くの見送った。
廊下の窓を開け、サリュースを抱きかかえて、飛び出した。
「おい!なにをっ!」
眼も顔も真っ赤にして怒鳴った。そのまま王宮の屋根にまで上がった。
「牢屋に行っているから、学院に戻っていろ」
イージェンは言うだけ言って飛び降りていった。サリュースは屋根の上に仰向けになり、暮れ行く空を眺めながら、心を落ち着かせようと大きくため息をついた。ため息とともに眼から涙がこぼれ落ちた。