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《外伝》イージェンと銀環の月(上)-(4)

言ってしまってからイージェンはしまったと思った。馬に揺られていたとき、ティセアの身体から本人のではない小さな鼓動が感じられたのだ。母が孕んだときに感じたものと同じだった。もっとも母は、何度か孕んでは父に堕胎の薬を飲まされ、流していたので、無事に産まれた妹や弟はいない。望まない子を産むほうが酷いことなのは子どもなりにわかってはいたが、宿った命が流されていくとき、イージェンの心は痛んだ。

 しばらくしてから、小屋に戻った。ティセアはすっかり粥を平らげていた。ほっとした。暖炉の前に座り、小鍋で茶を煮た。ティセアは毛布に包まっていた。

「…夫はどうしたんだ、その…その子の父親は…」

 口ごもった。イージェンはティセアを見ないようにしていた。しどけなくしているさまを見てしまったら、きっとよからぬことを考えてしまう。いや、もう考えてしまっていた。

「夫はいない」

 ティセアが泣きそうな声で言った。

「すまん、よけいなこと、聞いたようだな」

 負けた国の女の行く末は(むご)い。あるいはそのような目に会ったのかもしれない。これだけの美しさ。昨日の男もそうだったように。

ティセアの分の茶を杯に入れ、床に置き、小鍋をもって外に出た。雨は小雨になっていた。馬をつないでいる木の下に行き、馬の側に座った。鍋から直接茶をすすった。心が落ち着く茶を飲んでいるはずなのに、少しも落ち着かない。身体が熱く荒っぽくなっている。落ち着かせないと。

 少しして小屋の扉が開いた。あわてて衣の中に入れていた手を出して、立ち上がった。ティセアが扉の外に立っていた。

 イージェンを見つけて、寄ろうとした。

「どうした」

 イージェンが厳しい目を向けた。ティセアが足を止めた。

「いや、外では雨に濡れるだろうと思って…」

 イージェンが顔を逸らして言った。

「この木の下ならそんなに濡れない」

 ティセアが首を振った。

「風邪でも引いたらどうする。こんなところでおまえに倒れられてもわたしにはどうすることもできない」

 回りくどい言い方で小屋に入れと言ってきた。イージェンは、しばらくそのまま立ちすくんでいたが、小鍋を持って中に入った。


 翌日、雨が上がり陽が差して来た。近くの湧き水に水を汲みに行き、小屋の桶に水を満たした。ティセアを陽の当たる乾いた石の上で待たせて、小屋の中の掃除をしていると、ティセアが入ってきた。「手伝う」

 ちらっと見てから手を休めずに返した。

「いい、ひとりで充分だ」

 じっと見つめる視線を感じながらもただ床や壁を拭いていた。昼前にはきれいになっていた。イージェンが毛布を敷いた椅子に座るよう示した。ティセアが言われた通りに座った。

「まもなく冬になる。そうしたら、ここは雪に閉ざされて、おそらく誰もやってこない。いずれどこか国外にでも身を隠すところを探すにしても、身二つになるまで、ここで過ごすというのもあると思うが」

 イージェンの言葉にティセアが腹に手を当てた。しばらく考えていたが、顔を上げた。

「ここでこの子を産めと?そんなこと…」

 不安に押しつぶさそうな顔をした。そんな顔をされるとますます胸が締め付けられる。平気なふりをして言った。

「軍はともかく、学院が関わっていると、国を違えても追ってくるかもしれないし、身重では動くに動けないだろうと思って。おまえに考えがあるなら、そのようにするから、言ってくれ」

 もし流したいというのであれば、それはそれでそのようにしてやろうと思った。もっとも、かなり大きくなっているから、薬の調合は難しいだろうし、母体も危険になるが。ティセアがうなだれた。

「わからない…どうすれば…いいのか」

 イージェンが椅子から離れた。

「すぐに決められないのなら、少し考えてからでもいい。さしあたりに必要なものを調達してくる」

 そう言って小屋を出た。馬に乗る前に小屋の周囲に獣避けの術を掛けた。馬に乗って下っていく。その途中で右腕をまくりあげ、灼熱に輝かせて崖に向かって溶岩を噴きつけた。崖は大きな音を立てて崩れ、溶岩が固まって登って行く道を塞いだ。これで下から登ってはこられない。あとひと月もすれば雪も降る。あの小屋には誰も近づけなくなる。イージェンの強固な獣避けでねずみいっぴき近寄れない。

 ふたりきりだ。でも…。

 守っていこう。大切に。それだけで…いい。

 イージェンは馬ごと空に飛び上がった。


 ふたりで小屋に住み着いて、ひと月が経った。朝晩、白いものが散らついてくるようになってきた。イージェンは冬を越す準備に毎日忙しかった。薪を集め、木を切って小屋の周りに雪避けを作り、石を積んで馬小屋と食料庫を作った。雪に埋まる前に薬草や食べられる根菜や木の実をせっせと集めた。暇を見て、近くに作った仮屋で調薬をした。

小屋でするわけにいかなかった。魔導師であることを知られたくなかった。学院からも追われている、魔導師を憎んでいるかもしれなかったからだ。そのことでもう誰かに嫌われたくなかった。

山を越すとすぐに隣国だった。最近争乱があったらしく、戦場跡が生々しく残っていた。うち捨てられている剣や矢、槍などを拾ってきて、砥いでふもとの道具屋などに売りに行った。

夜、部屋の隅で黙々砥いでいると、買って来てやった読み物に目を通していたティセアが寄って来た。砥ぎ終わった剣を持って、手を添えて眺めた。

「城に砥ぎ屋がいたが、こんなに見事にきれいにはならなかった、どこで習ったのだ」

 返事せずにいると、寂しそうな顔で剣を置き、立ち上がろうとした。

「あっ!」

 急に声を上げて腹を押さえた。イージェンが驚いて、砥ぎ汁のついたままの汚れた手で肩を掴んだ。

「どうした!痛むのか!」

 ティセアが伏せていた顔をあげて、戸惑ったようすで首を振った。

「いや…動いた…」

 イージェンがほっとした顔で手をひっこめた。服を汚してしまったことに気づいて、あわてて手ぬぐいを濡らして来たが、拭わず、着替えを出した。

 着替えて椅子に戻ったティセアにイージェンが温かい豆の煮汁を出した。甘い味をつけてあって、ティセアが気に入ったので、毎晩のように作ってやっていた。

「飲んで寝ろ」

 匙で汁をすくって飲んだ。イージェンが窓の外を見た。

「雪が降ってきた。これが根雪になるだろう」

 それまでも何回か雪は降ってきたが、すぐに融けてしまっていて、根雪にはなっていなかった。

 ティセアがベッドに腰掛けて横になろうとした。イージェンがその側にひざまずいた。ティセアが身を堅くした。イージェンが顔を伏せて、消え入るような声で言った。

「…腹に触らせてくれないか…」

イージェンはこれまで一度もティセアに触れようとしなかった。それどころか、ほとんど見ようとしない。話しかけても素っ気無く、必要以外のことは言ってこない。いつも不機嫌な顔で黙々と作業をしていた。

 たやすく触れられたくないと思う一方、頼れるものといえば、この素性もよく知らない男だけだった。無愛想だったが、自分に好意があるからこそ、世話をしてくれているのだろう。雪に閉ざされていく中、ひとりで山を降りることはできない。もしふもとまで行けたとしても、頼るものなど誰もいない。

民を助けるためにあの屈辱に耐えたのだから、この男に好きにされたとしても、いまさら心が死にはしないだろう。だが、もう守るべき民もいないのになぜ身を任せるような真似をしてまで生きようとしているのか。

 この子がそうさせてるのだ…きっと。

 腹を押さえながらうなずいた。

「いいけれど…こんな膨れてみにくい孕み女など…」

 イージェンが右の手のひらをそっと伸ばして腹に当てた。どきっとした。大きな手。まるで春の日の光のように暖かい。とても心地よい。

 ゴボッ。

 腹の子が動いた。イージェンがビクッと手を引っ込めたが、また触れてきた。

「…動いてる…」

 顔を近づけ、耳を押し当てて、目を閉じた。その閉じた目から涙が頬を伝っていった。

「イージェン?」

 顔を離して拳で目を拭った。

「寝よう」

 ティセアが横になり、狭いながらベッドの横を空けた。だが、イージェンはいつものように部屋の隅に行って薄い毛布の上に横になってしまった。

…ヘンなやつだ…

 拍子抜けしたティセアがこちらを向いている大きな背中を見つめた。自分には拒むことなどできないのだし、好きにすればいいのに。

 イージェンは手のひらを堅く握って目を閉じていた。手のひらと頬で鼓動を感じて涙が出た。心の奥底に届き、身体の奥底に染み込んで行く。

 イトオシイ…。俺の奥底が言っている。

 その夜、イージェンは久々にぐっすりと眠った。

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