イージェンと鉄の箱《トレイル》(3)
満天の夜空、第一の月が低い位置に登っている。いい風が吹いていた。アリスタが胸を膨らまして深く息を吸い込んでいた。
「風、気持ちいいわ、バレーでは風もアァティフィシャリテイだし」
風を作り出している道具があるらしい。後ろから二台トレイルが付いて来ていた。一番後方が弐号車だ。
「今回テェエルでのミッションに参加してみて、空とか海とかきれいだなって思ったわ」
テェエルは地上のことだという。
「わたしはワァカァ出身だし、助手どまりだから…どうせなら、変わったことしたいなって思って参加したんだけど」
アリスタが少し遠慮がちだが、イージェンに身体を預けてきた。
「マシンナートにも身分みたいのがあるのか」
腕を掴んできた。
「シリィたちの身分とはちょっと違うけど…でも、似たようなものかも…」
走る路が急に悪くなったようだった。がたがたと箱体が揺れた。アリスタが倒れそうになったのをイージェンが抱き支えた。
「でも、おまえたち三人、仲がいいじゃないか、年も違うし、その…身分も違うみたいだが」
アリスタがイージェンを見上げた。暗闇でも、イージェンにははっきり見える。目が悲しそうだった。
「ヴァンとは子どもの頃、育成棟で一緒に育ったの…私は知能の数値が高かったから、インクウワィアになったけど、彼はなれなかった」
能力の差は仕方ないだろう。魔導師でも執政官でも等級はある。
「ファランツェリとは?」
揺れがひどくなってきた。海岸沿いから内陸に向かっている。この大陸のどこかにバレーがあるのか。まったく聞いたことがない。
「研究棟で同室、同じ教授の演習チィイムだったの。そのころ、あの子まだ七つで、大人ばかりの中で馴染まないし、大教授の娘だからって敬遠されてた。わたしもワァカァ出身だから疎外されてて、それではみ出しもの同士って感じで、仲良くなったのよ」
七つで大人と混じって学ぶのだから、やはりかなり優秀なのだ。
「ヴァンは子ども好きだし、ファランツェリも気が合ったみたいですぐに仲良しになったのよ」
ファランツェリは二年前に上位の演習チィイムに移り、それ以来会っていなかったが、半年前極北の海で補給を受けるときに再会したのだという。
「極北の海…マリィンが海の中をうろついているのか」
「他のところは知らないけど、私のバレーの所属艦は五艦だったわ」
トレイルはほかの大陸でも見かけたことがあったが、マリィンが大陸間の海の中をうごめいているとは。それがもしみな、ミッシレェを積んでいたら。
仮面や学院はこのことを知っているのだろうか。
イージェンがアリスタを抱き上げた。アリスタが頬を赤らめて首に腕を回し肩に頭を預けた。ふわっと浮き上がり、空を飛んだ。
「きゃあっ!」
アリスタが短く悲鳴を上げ、たちまち弐号車の屋根の上に降り立った。
「行こう」
イージェンがアリスタを支えながら、出入口に向かった。
ランチルゥムを覗くと、ヴァンがいた。何人かのワァカァたちと食事をしていた。ヴァンが手招いた。
「壱号車に泊まるのかと思った」
「こっちでないと落ち着かないし」
アリスタがちらっと後ろを見た。ワァカァのひとりが盆を持ってきた。
「どうぞ」
アリスタとイージェンの前に盆を置いた。アリスタが心配そうにイージェンに尋ねた。
「食べられるもの、ある?」
イージェンが緑色の濃厚なスープを匙ですくって口をつけた。豆の煮汁のようだった。
「ああ…食べられそうだ」
実は食べられたものではなかった。だが、この先食べないわけにはいかない。なんとか我慢して飲み込んだ。ヴァンがカファを持ってきてくれた。
「すまない」
飲みながら、イージェンが感謝した。ヴァンがアリスタにそっと言った。
「…昼間、参号車のアズが言ってたんだが、王都から逃げてきたプテロソプタを撃墜したってさ」
王都から一緒だった行法士も声を潜めた。
「ミッシレェも何かで迎撃されたって」
アリスタが困った顔でパンをかじっていた。
「それ以上は発表があるまで、あまり話さないほうがいいわよ」
ヴァンと行法士がうなずいた。ヴァンがスープのほかには何も食べないイージェンのカファのおかわりをもってきてやった。
「イージェン、寝るとこだけど、別に部屋が用意できないんだ」
ヴァンも行法士と相部屋になったのだ。イージェンがカファを飲み干した。
「モゥビィルの倉庫の隅にでも横になる。だめなら、屋上でもいい」
「ちょっと狭いが俺達と一緒の部屋でいいか」
イージェンは意外な申し出に戸惑った。
「いいのか?」
遠慮がちに尋ねるイージェンに、ヴァンがうなずき、細身で小柄な行法士も親指を立ててにこっと笑った。アリスタがつまらなそうに白く濁った液体を飲んだ。