第352回 セレンと南海の魔獣《マギィクエェト》(上)(4)
「ごめん、俺……おまえがあんな目に合ったのは、俺のせいだから……嫌われたと思ってた」
素っ気無くしたことをあの男に汚されてしまったから嫌われたのだろうかと心を痛めていたのだと思うと、すまなさでいっぱいになった。セレンがううんと首を振った。
「ぼくのおなかが丈夫じゃなかったから……アートランのせいじゃないよ」
嫌われてなくてよかったと喜ぶセレンをぎゅっと抱き締めた。
「セレン……おまえ、きれいだ……きれいなままだ」
その名も、その身体も、その奥底も。
何度もセレンの名を呼び、夢中になって口付けを繰り返した。セレンが、アートランの腕の鱗に気付いた。
「アートラン、これ、魚の……」
アートランが肌着を脱いだ。左の肩から腕にかけて、きらきらと光っているようにも見える黄色の鱗が生えていた。
「わあっ……」
セレンがうれしそうに鱗を撫でた。
「キレイ」
頬摺りしてきた。
「どうしたの、これ」
「大きな魚を食べたら、生えてきた」
へえと感心しながら、唇でも鱗に触れた。
「アートラン、ほんとに魚さんだ」
セレンが舌で鱗を舐め始めた。アートランがぞくっと感じて震えた。
「ああ、俺はおまえの魚さんだ」
この想い。この滾り。
身も心も熱くなる。我を忘れるほどに夢中になる。
アートランはセレンと何度も身体を重ねた。
セレンは、暖かい海の中を泳いでいるように気持ちがよくなって、やがて、頭の中に真っ白な光の海が広がって吸い込まれていった。
アートランは精を出し尽くして、セレンの上でぐっすりと寝てしまった。なんとき寝たのか、目が覚めたときは、とっくに陽が登っていた。しかも、なぜかベッドの上にセレンとふたりで寝ていた。
セレンの肩を揺すった。
「セレン」
ううん…?と目を擦って起きた。セレンがぼおーっと首を傾げてから急に飛び上がった。
「あ、朝ごはん!」
作らなくちゃとベッドから飛び降りた。さっと顔を洗い、身づくろいをして、厨房に向かうと、ティセアがやれやれと呆れた顔をした。
「ずいぶんと寝坊したな、イージェンがいないからって、だらしなくするな」
ふたりしてコンコンと軽く頭を小突かれた。ごめんなさいとしおらしく頭を下げると、さっさと食べろと食堂に追いやるように手を振られた。
朝飯を食べてから、ふたりで後片付けしていると、ヴァシルがやってきた。顔を赤くして目を泳がせた。
「あ、あの……ああいうことは、その……部屋でしてくれないかな、後始末はしたけど」
アートランが目を丸くした。ヴァシルが、すっかり寝込んでしまったふたりをベッドに運んで、汚れた厨房の後始末をしてくれたのだ。そういえば、身体も拭ってあったし、肌着や下穿きも着けていた。
「悪い、ほんと、ごめん!」
アートランが面目なく手のひらを合わせて拝むようにしてあやまった。セレンも真っ赤になって頭を下げた。
「ごめんなさい……」
ヴァシルがはあとため息をついた。
「まったく、みんな、好き勝手なんだから」
呆れていたが、怒ってはいなかった。
ルカナが戻ってきて、厨房に顔を出した。
「あら、アートラン、やっぱり戻ってきてたの」
大変なことになってるのよとルカナが事情を説明するからと食堂に移った。
ルカナがまずお茶を頂戴と飲んでから、ドォァアルギアが島に接岸し、ファリンツェリが総帥居城を視察に来ることになったと話した。
「あの小娘、相変わらずだな」
アートランがファランツェリのわがままぶりに苦々しく吐き捨てた。
「もてなしでもして、ドォァアルギアからファランツェリを引き離しておこうってことになったのよ」
統治総帥のアルリカに侍女長になってもらって世話をさせようと、ティセアの服を借りに来たのだ。アルリカも背が高く、体型が似ていた。
「アルリカ総帥、島に戻ってきてるのか」
アートランが、カトルを救出し、キャピタァルを出ようとしたときにエアリアたちと出会い、中枢主任のヴァドを殺し、今はリィイヴが成りすましていると簡単に話した。
「リィイヴが中枢主任をやっているの?」
ヴァシルがばれないのかと心配した。
「いずればれるだろうけど、それまでに策謀の準備を整えるしかない」
島の管制棟にも連絡が来ていて、カトルとアルリカも音声通信で話をしたとルカナが二杯目のお茶を口にした。
「リィイヴが、あんたに音声通信っての、したけど、でなかったって。『空の船』にいるはずだけどって心配してたわよ」
アートランがポケットから小箱を出して開いた。
「うえっ…電文も来てた」
着信、受信ともに夕べの夜中の時刻だった。
「ずいぶんとぐっすり寝てたから、気が付かなかったんだよね?」
ヴァシルがめずらしくいじわるした。アートランが何も言い返せず、口を尖らせて上目遣いした。電文の返信をしながら、ごまかすように仮面からの連絡はと尋ねた。イージェンからの知らせなどは来ていなかった。
「俺の正体、ファランツェリには、まだばれてないだろうから、少し探るか」
アートランが、ようやくにやっと口はしを上げた。ヴァシルとルカナは、訳がわからないようすで顔を見合わせた。
「それと、侍女は、アルリカ総帥じゃだめだ」
あらなんでとルカナが首を傾げた。アートランが肩をすくめた。
「ああいう小娘は、自分より美人を嫌がるからな。アルリカ総帥はかなりきれいだから、おまえがやったほうがいい」
きょとんとしていたルカナが急にあーっと声を上げた。
「なにそれ、あたしが不細工ってこと?!」
「俺、そこまで言ってないぜ」
しらっとしているので、ルカナがぶぅと頬を膨らませた。黙って下を向いているヴァシルが笑いを堪えているのに気が付いて、頬をつねった。
「いたっ!なんでわたしをつねるんだっ!つねるんなら、アートランだろっ!」
ルカナがアートランの頬もつねろうとしたが、すっと避けられた。
「あー、逃げたわねっ!」
ぷんぷんしているルカナを置いて、セレンはリュールとウルスに餌をやりに行き、アートランは部屋に戻って、従者っぽい服に着替えた。扉が叩かれて、ヴァシルが入ってきた。
「レヴァードは……どうしたの」
心配していた。さきほど言い忘れていた。
「心配ない。おっさん、帰りたがってたけど、手が足りないから残ってもらった」
キャピタァルで重要な仕事を任せていると話すと、ほっとしたようだった。
甲板に出たところ、十羽ほどの遣い魔が新しく来ていた。どれもイージェンの対処の悪さを非難する文書だった。
「どいつもこいつも、ふざけやがって」
アートランが次々に伝書を破り、紙片がひらっと手から離れると同時に煙のように消えた。
「ちょっとぉ、イージェン様宛のものでしょ!お見せしないと!」
ルカナが、勝手に破っちゃだめよとたしなめた。アートランがフンと鼻を鳴らした。
「こんなもの、仮面に見せられるか、こっちの苦労も考えず、どう始末するつもりだと責めるばっかりだ。手伝いますって言ってくるべきだろう」
ヴァシルが確かにと同意した。
特にエスヴェルン学院長から来た非難文はひどかった。災厄はおまえだ、早くバレーを始末しなければ、大魔導師として認めたことを撤回するよう五大陸総会に提議すると書かれていた。しかもルカナを早く返せとまで言ってきていた。
現状は刻々伝書で各学院に報告している。そんなことを言い立てているような状態ではないことがわかっているはずだった。不愉快極まりない。
……くそっ、あんなやつが父親だなんて。
アートランがギリギリと歯軋りした。セレンがリュールとウルスを連れて、甲板に出てきた。
「行くの、アートラン」
アートランが眼を細め、ああとうなずいて、指でセレンの頬を撫でた。
「いってらっしゃい」
セレンは笑顔で、抱えていたウルスの腕を握って、手を振った。ルカナとふたり、飛び上がり、島を目指して飛んでいった。