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第297回   イージェンと陽光の『空の船』(4)

「イージェン様」

 リュリク公が片膝をついてお辞儀した。挨拶を受け取ったイージェンがヴァシルに、すぐに行くので船長室に案内してくれと頼んだ。

 船長室で待っていると、しばらくしてイージェンが茶器を持って入ってきた。

「ヴァシル、休んでいいぞ」

 お辞儀して下がった。湯が残っていたら茶を入れようと厨房に寄った。少し残っていたので、小さなやかんに葉っぱを入れて湯を注ぎ、それを持って自分の部屋に戻った。外套を脱ぎ、小部屋の茶碗に注いで立ったまま飲んだ。

胴衣とズボンを脱ぎ、顔と手足だけ水で洗った。

「ハア…」

 ようやくひといきついた。ベッドに入ろうとしたとき、誰かが寝ているのに気が付いた。

…えっ…

 船に戻れて気が緩んでいた。まったく気配を手繰らなかったとはいえ、部屋に入ってすぐ気が付かなかったとは。寝ていたのはルカナだった。

…なんでわたしの部屋に…

 昨日までは客用船室を使っていた。ヴァシルがもう戻らないと思って、自分の部屋にしてしまったのだ。

 不愉快でたまらなかった。起こして追い出そうと思ったが、きっと喧嘩になってしまい、みんなを起こしてしまうだろう。

船長室の隣部屋で寝ようと胴衣とズボンを着ようとした。

パスッと音がしてルカナが寝返りを打った。寝顔があまりにのんきなので、なんで自分が出て行かなければならないのか、むかついてきた。肩を揺すった。

「…う…ん…?」

 ルカナがうなりながら目を開けた。

「ルカナ、起きて」

 ルカナが目を擦りながら起き上がった。

「あ…ヴァシル、あんた、カーティアに戻されたんじゃ?」

 すっかり目が醒めたようでくるっと目を丸くした。

「戻されたんじゃない、使いに行っただけだ、それより、ここはわたしの部屋だ、出てってくれ」

 ルカナがむっとして頬を膨らませた。

「いやよ、せっかく寝具も全部変えたし、あんたの荷物あそこにまとめておいてあげたから、あんたがどこか空き部屋に行って」

 部屋の隅の袋を指さした。

「なんでそんな勝手なことするんだ!」

 かっとなったヴァシルが思わず手を上げた。

「きゃあっ!」

 ルカナが叩かれる寸前身を引いた。頬を叩こうとした手が胸元に行き、肌着の上からだが乳房を掴んでいた。

「わっ!」

 ぐにゃっと柔らかいかたまりに驚いて手を引いた。

「…なんだ、そういうことなのね…」

 ルカナが頬を赤く染めてはずかしそうに上目遣いした。

「そ、そういうことって…」

 ヴァシルが妙な誤解をされたと気づいた。

「そんなわけないだろう、ふざけないでくれ!」

 ルカナがばっと横になって背中を向けた。

「もう寝る!」

「ちょっと、ここはわたしの…」

 背中から怒りが放射されていた。これ以上すると確実に喧嘩だ。でも、部屋を出て行くのは(しゃく)だった。

…ここはわたしの部屋なんだから。

もう意地になって、ルカナの隣に横になって背を向けた。


 ヴァシルを下がらせてから、イージェンは、茶器を手のひらでゆっくりと撫でて、茶碗に丁寧に注いだ。

「どうぞ」

 受け皿に載せて差し出すと、リュリク公が腰を浮かし、お辞儀をして両手で受け取った。一口含み、その香りと味の素晴らしさにうなった。

「これもまた見事な」

 王宮で飲ませてもらったときは従者が入れたものだったのだが、これはまた入れ方がよいのか格別だった。

「ヴィルト様はお茶など入れてくださることはなかったが」

 イージェンが茶器を撫でた。

「俺は自分はもう飲めないが、美味しいのをみんなに飲ませてやりたいだけだ」

 飲み干して茶碗を返すと、おかわりを入れた。今度は机の上に置いた。

「こんなところまではるばるやってきた理由を聞こうか」

 リュリク公がふところから厚い布を出し、包まれた中のものをイージェンの前に置いた。

「国王陛下からの密書を届けに来た。これを読んでいただきたい」

 イージェンが目の前に置かれた密書を指先でトントンと叩いた。

「読む前にあなたの口から事情を聞きたい」

 リュリク公がしばらく考え込んでから、口を開いた。

「四の大陸から輿入れされたお妃のことで問題があった」

 婚礼の式の前から式の最中、祝宴での妃の振る舞いのこと、その後、妃が『床入り』を拒んで、王太子が『初夜』を独り寝で過ごしたことを話した。そのときに、連れてきてからそのような状態を知りながら注意もしなかったサリュースに当然の責務として、妃としての『義務』をわからせるよううながしたが、サリュースはそれを宮廷からの苦情と王太子に告げた。

 王太子は、なんとか頑なな妃と打ち解けようと四の大陸の食事を出したり、一緒に食事をしたりしていたが、サリュースが、王太子が『しきたり』に反した食事を出したことや妃の部屋を訪れたことを非難し、妃を厳しく叱った。そのため、王太子が自分たちで話し合うので口出しするなと言い返した。

「それで学院長は、もう学院は口出ししないと態度を硬化させ、王宮で妃殿下が行方不明になったときも手を貸してくれなかったのだ」

 抗議に行くと、王太子が学院を甘く見ているので思い知ってもらうと言い放ち、しかも大魔導師を『災厄』と疎んだのだ。

「殿下が学院に見放されることもあるかと心配なのだ」

 リュリク公がため息をついた。イージェンが呆れたように椅子に背を預けた。

「サリュースがどれほど殿下を大切にしているか、それは俺よりもあなた方のほうがよくわかっているのでは」

 リュリク公もそれはわかっているがと眉をひそめた。

「エスヴェルンは今まで世継ぎの争いなどはなく、王太子を廃したこともないのだ。学院と宮廷は一体となって国政を治めてきた。だから、このたびのサリュースの態度には驚いてしまって。それに大魔導師であるあなたを嫌っている。ふたりの不仲も心配なのだ」

イージェンが手を差し出して茶を勧めた。リュリク公が軽く頭を下げて茶碗を取った。

「あいつは俺を嫌っているが、俺はあいつをそれほど嫌いじゃない」

 リュリク公がはっと頭を上げた。

「あいつももう少し思いやりがあればな」

 それは確かにとリュリク公がうなずいた。

「あいつは誰よりもエスヴェルンのことを考え、真義と秩序を守ろうとしている」

 少し視野が狭いがと言い、国王の密書をリュリク公の方に押し返した。

「俺はあいつを信じてる、殿下を見放すことなどないと。これはお返しする、陛下にもそう伝えてくれ」

 リュリク公が茶碗を静かに受け皿に置いた。

「わかった、大魔導師様のお気持ち、陛下にお伝えする」

 頭を下げて、密書を受け取り、包みなおして懐に入れた。それからあらためて茶を飲んだ。

「妃殿下も殿下の優しい気持ちに触れて、こちらの『ならわし』に慣れようとされているので、よい方向に向かっている」

 王太子夫妻でカーティアを訪問する予定だと話した。

「それはよいな。カーティアもまだまだ大変なので、手助けしてやってほしい」

 そのための交流はどんどんしてほしいと頼んだ。

「そういえば、セネタ公には会ったのか」

 昨晩は屋敷に泊めてもらって、一晩酒を酌み交わしながら昔話に花を咲かせたと笑った。

「お互い年を取ったと感慨深かった」

 それはよかったとイージェンも笑った。

「カーティアもエスヴェルンにならい、世継ぎの争いで国が乱れることのないようにしたいと望んでいた」

 カーティアの歴代国王は、正妃以外の妾妃や側室を多く持っていたので、世継ぎ争いが絶えなかったからだ。

「他の大陸では、国同士が政略結婚で関係を良好にしようとすることもあるから、妃をたくさん持つことがあるが、この大陸では必要ないだろう」

 イージェンが二の大陸や三の大陸の複雑な政情を語った。リュリク公が熱心に耳を傾けていた。

「これまでは他の大陸の政情を気にする必要はなかったし、逆に互いに干渉しないようにしてきたが、実際にはヴラド・ヴ・ラシスの手によって、ヒトや物の流れはあった」

 その影響をもっとも受けずに来たのが、一の大陸だとイージェンに言われ、リュリク公は、これからも厳しく教導してほしいと頼んだ。イージェンは少し考えてから小さくうなずいた。

「まだ夜明けまで時間がある、横になられるか」

 客室は用意してあるがと言うので、ありがたく案内してもらった。客室は他の部屋より少し広めで、ベッドのほかにテーブルと椅子がある。肌着で横になった。

 

 翌朝、朝飯の当番だったレヴァードが廊下を出たところで、反対側の部屋からヴァシルが出てきた。

「おはよう、戻ってたんだ」

 ルカナがもう戻らないようなことを言っていたが、レヴァードは信じていなかった。やっぱりなぁと笑っていると、ヴァシルの背中を押しやってルカナが顔を出した。

「ちょっと、邪魔よっ」

 レヴァードがきょとんとしてから、にやりと笑って、ヴァシルの肩を叩いた。

「そっか、そういうことか」

 ヴァシルが真っ青になった。

「ち、ちがいます!ちがいますから!」

 ルカナがぎゅっとヴァシルを押して、ずんずんと廊下を歩いていく。レヴァードがその後ろ姿を見送ってから、ヴァシルの肩を抱いた。

「いいから、黙っててやるから」

「ちがいますって!」

 ヴァシルが必死に否定してもレヴァードはいいからと勝手に解釈して行ってしまった。

 当番はレヴァードとリィイヴだったが、イージェンがスープを作ってくれていた。イージェンが、盆に朝飯と茶碗を乗せ、食堂のテーブルの上を拭いていたルカナに客室に運ばせた。

 ルカナが客室の前に立ったとき、中のヒトの気配を感じ取った。知ったヒトのようだった。誰かしらと戸を叩くと、低い男の声がした。

「おはようございます」

 挨拶をして入り、顔を上げた。リュリク公が椅子に腰掛けていた。

「か、閣下…何故ここに…?」

 テーブルに盆を置いて、改めてお辞儀した。

「『しきたり』には合っていませんが」

 と朝食を勧めた。リュリク公がなんでもありがたく頂くとスープを口に運んだ。

「…うまい…これは…」

 深みのある旨味。海の味がした。貝の身のスープだった。

「それはイージェン様が作ったんです」

 そうかと感心した。食べ終えて茶を飲んでから、ルカナに頼んだ。

「わたしがここに来たことは内密に」

 ルカナが厳しい目をし、返事をしなかった。盆を厨房に下げてから船長室に向かった。イージェンにリュリク公が朝食をすっかり食べたことを報告した。

「イージェン様、お願いがあります」

 ルカナが真剣な目付きでイージェンを見つめた。

「ここに置いてくれという頼みなら聞けないぞ」

 先に言われてしまい、ルカナががっくりと肩を落とした。

「だめですか…」

 ああとうなずかれ、ルカナがぐっと身を乗り出した。

「閣下の来訪もティセア様のこともお子様のことも内密に…ですよね?わたしをここに置いたほうがよいのでは」

 イージェンもぐっと身を乗り出し、仮面をルカナに近づけた。

「俺を脅すとはいい度胸してるな」

 ルカナが仰け反ったが、言い返した。

「脅すだなんて…わたしはただ、この船にいたいだけです」

 イージェンが手を振った。

「カーティアが手が足りないこと、分かっているだろう、今おまえに抜けられたらダルウェルとキュテリア、クリンスの三人で回さなければならない」

 もう少し手を貸してやってくれと頼んだ。

「ルシャ=ダウナと東バレアスから特級を回してくれるよう頼んでいるが、まだ先になりそうなんだ」

 ルカナがぐすっと鼻をすすった。

「…わかりました…」

 イージェンが椅子から立ち上がった。

「居心地いいか、ここは」

 ルカナが黙ってうなずいた。

「そうか」

 置いてやれなくてすまないとうつむくルカナの頭をポンポンと軽く叩いた。

「どっちにしても、エスヴェルンに帰らないとサリュースが承知しないだろう。ルシャ=ダウナか東バレアスの特級が来たら、エスヴェルンに戻る前にもう一度来るといい」

 ルカナがはいと涙を拭った。

 ルカナは厨房に行き、スープを食べ、茶を飲んでから、エアリアの部屋に行った。

「どう?具合は」

 エアリアは身体を起こしていた。

「だいぶよくなったわ、歩けるようにもなったし」

 それはよかったとほっとした。カーティアに戻るのでと話した。

「残念だけど、しかたないわ」

 エアリアも残念と手を差し出した。その手を握った。

「リィイヴさんって、優しそうでいいわね」

 ルカナがうらやましいと悔しそうな顔をした。ヴァシルは同じ寝床で寝てもなにもしなかった。そんなわけないわよねと思いながらもほんの少しだけ期待していた。でも、夜明けまで指一本触れなかった。

エアリアが気まずそうに顔を伏せた。

「ごめんなさい…」

 ルカナが首を振った。

「あやまらなくていいわよ、うらやましいの、ほんと」

 笑って手を振って出て行った。

 ティセアにも挨拶し、甲板に出ていたマシンナートたちにも別れを告げた。雑巾を絞っていたレヴァードが驚いた。

「帰るって、ヴァシルががっかりするな」

 ルカナが目を丸くして、笑い出した。

「まさか、ヴァシルはほっとするわよ」

 そのヴァシルは船底で用桶の始末をしているというので、階段を降りて行った。

 ルカナに気が付いて、ささらを回す手を止めた。

「わたし、閣下を連れて、カーティアに戻ることになったわ」

 ヴァシルが戸惑ったような顔をした。

「うれしいでしょ、わたしがいなくなって」

 ルカナが目を赤くした。

「そんなこと…」

 ヴァシルがまたささらの手を動かし出した。その様子をじっと見ていたルカナが唇を噛んだ。

「いじわるして悪かったわ、異端との戦い、がんばって」

 さよならと肩を回した。ヴァシルが手を止めて、立ち上がった。

「わたしも手を上げたりして悪かった。君もがんばって。カーティアのこと、よろしく」

 ルカナが、背を向けたまま、こくっと首を折って階段を駆け上がっていった。

いじわるでかわいくないと思うのだけれど、少し寂しい気持ちになって、眼を細めた。

「ルカナ!」

 ヴァシルが呼ぶと階段の上で振り返った。

「元気で」

 ルカナがにこっと笑って手を振った。

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