第240回 イージェンと月光の戦姫《いくさひめ》(上)(2)
ルキアスが出してきた手を握ったが、ルキアスも足元が危うく、引き摺られて一緒に崖を転がってしまった。少しして止まった。
「姫様…だいじょうぶですか…」
灯りを落としてしまった。消えればいいが、もし火が点いたりしたら火事になってしまう。あわてて探した。ティセアも周りを手探りした。
「ここにある」
ティセアが見つけて、蝋燭も拾った。ルキアスが受け取ろうとした掌が血で滲んでいた。小さな枝がけっこう深く刺さっていた。
「抜くぞ」
ティセアが指で摘んで、ぐっと引き抜いた。
「うっ!」
なかなか抜けなかった。なんとか抜けて、ルキアスが涙目でほうっとため息をついた。ティセアが舌で掌を舐めようとした。
「じ、自分でやりますっ!」
慌てて手を引っ込めて、自分で舐めた。ティセアが苦笑して、寝間着の袖口を引きちぎって、巻いてやった。
「湖に行ったら洗わないと」
灯りを付け直して湖畔に下りて行った。湖岸に腰を降ろし、荷物袋に入っていた水筒に少し水が残っていたので、一口づつ含んだ。
白々と明けて来て、薄赤く空が染まってきた頃、湖の中ごろに漁船の影が見えた。そこまで二カーセルから三カーセルありそうだった。
「俺、あの船に行って、渡してくれるよう頼んできます」
「あそこまで泳いでいくのか」
ティセアが呆れて湖上を見た。ルキアスがうなずいた。
「金を渡せばやってくれると思うので」
木の陰に隠れて待っていてくれと上着と長靴を脱いだ。金の袋をしっかりと腰に括りつけた。岸は細い葦草がたくさん生えていた。その間を掻き分けるようにして泳ぎ始めた。しばらく見ていたが、かなりの速さで危なげない泳ぎで進んでいた。たいしたものだと感心した。
ティセアは、岸に寄り、足を水につけた。
「つっ…」
足の裏が穴だらけで、小石がめり込んでいた。そっと取った。脛は切り傷で血だらけだった。水で洗い、残った片袖をふたつに引きちぎり、足を包んで木の陰に隠れた。
ルキアスは、身体の力の加減をしながらも力強く泳ぎ出した。ひとときほどで湖の中ごろに着いた。そのあたりに見えていた漁船は少し移動していたが、すぐにたどり着いた。船の縁に手を掛けて、伸び上がった。船がそちら側に傾き、網を引き上げていた漁師が驚いた。
「ひっ!」
網を投げ出して腰を抜かしてしまった。ルキアスが手を離し、湖中に沈んでいく網を掴んで、また縁に手を掛けて顔を出した。
「脅かしてすまない。頼みがあるんだ」
漁師がぶるぶる震えながら手を振ったが、ルキアスが網を拾ってくれたと分かり、おそるおそる近寄ってきた。網を受け取り、後ずさりした。あまり大きな船ではなかったが、もうひとり乗っていて舳先からやってきた。
「どうした、親父」
よく日焼けして、体格のいい若い女だった。
「わからん、いきなりヒトが…」
怯える父親が止めるのも聞かず、女がかまわずに近づいてきた。娘のほうが度胸があるようだった。
「頼みがあるんだ、湖を渡りたい。金は払うから」
女が目を見開いてルキアスを見ていたが、少し目を伏せてから、手を差し伸べた。その手を掴んで、船の上に上った。
「あちらの岸にひとりいる」
そのヒトも乗せていきたいと頼み、腰の金袋から銀貨を三枚出して、女の手のひらに乗せた。
「こんなに」
女が戸惑っていると、急に父親が寄って来て、さっと銀貨をひったくった。
「そっちの網上げろ」
女がうなずいて舳先の網を上げた。少し魚が掛かっていて、網に引っかかっている魚を外してたらいに投げ込んだ。その間に父親が櫓で漕ぎ出した。女も反対側で漕ぎ始めた。
「今逆風なんで、帆が張れない」
女が足元の櫓を蹴って寄こした。
「あんたも手伝いな」
ルキアスが櫓を握って父親の後ろに行き、ぶつからないように気をつけながら漕いだ。三人で漕いだので、四半時で岸に近づいた。
「今連れてくるので、待っててくれ」
ルキアスが飛び込み、岸に向かって泳ぎ出した。
「エルチェ、逃げよう、どうもまともじゃない」
父親が帆を揚げようとした。エルチェと呼ばれた娘が帆の縄を握った。
「金だけもらって逃げようなんて、そんな不義理できないよ」
ぎろっと睨みつけると父親が縄を離した。
岸に戻ったルキアスは、木の陰から出てきたティセアに漁船を指差した。
「乗せてくれることになりましたから」
かなり岸近くまで来てくれているが、あそこまでは泳がないといけないと困ったようすで頭を下げた。
「泳げるから大丈夫だ」
ルキアスがほっとしてティセアを包んでいた外套に剣と袋、長靴を包み、頭の上に乗せた。ふたりで葦草の間を通って船に泳いでいった。包みを船の上にほおりあげ、先に上ったルキアスが、手を差し伸べた。上ってきたのが白い寝間着らしきものを着た女だったので、漁師親子が驚いていた。
「こちらへ」
ルキアスが舳先のほうに連れて行き、座らせた。父親が帆を張った。バサッと大きな音がして、広がり、風を孕んで動き始めた。手漕ぎよりもはるかに早く、湖の中ごろに向かっていく。
「岸ならどこでもいいのか」
女が不機嫌そうに尋ねた。トモ(船尾)で縄で帆を操っていた。ルキアスがどこでもいいと答え、風に吹かれて寒くなったらしく震えているティセアに頭から外套を掛けてやった。その様子を見て、女がフンッとそっぽを向いた。
回りをしきりに気にしていた父親が別の漁船を見かけて、ルキアスたちに頭を低くするよう手を振った。
「あのむこうのは…」
女が目を凝らした。
「巡視船だ」
警邏隊が警戒しているのだ。近寄ってくる。ルキアスがトモにやってきて、縄を掴んだ。
「速度を上げて逃げられないか」
女が首を振った。
「あっちは帆と漕ぎで来るから無理だよ」
ルキアスがティセアのもとに戻った。
「このままだと捕まります。連絡を取らせてくれれば」
なんとかなるかもしれないがと苦しそうに言った。
「泳いで渡ろうか」
戸惑いながらティセアが見上げると、ルキアスが首を振った。
「無理です。まだあと十カーセルはあります。休み休みでも姫様では」
ルキアスもこれ以上遠方まで泳ぐのは無理だった。手足が鉛のように重かった。
巡視船が寄って来て、止まるよう旗を振った。帆を畳んで停まり、巡視船が渡り板を掛けてきて、ひとり渡ってきた。
「向こう岸に向かったな、どうしてだ」
警邏隊だろう。船の上だからか、短い剣を構えていた。舳先にふたり縮こまっているのを見咎めた。
「そのふたり、こっちを向け」
ルキアスが覚悟した。捕まれば岸まで連れて行くだろう。詰所で尋問されるだろうから、そのときに頼んでみるしかない。ふたり、ゆっくりと向き直った。
「向こう岸から渡ろうとしたんだな、今渡り船は出港停止しているのに、何故無理に渡ろうとした」
ほかのものは向こう岸の待合所で待っているぞと厳しく言った。もちろん、女の姿がふつうではないことがわかっていて聞いたのだ。ルキアスは答えずに兵士と目を合わせた。兵士が険しく目を細めた。巡視船に乗るよう剣の先で示した。剣と袋を取り上げた。
ルキアスがティセアを先にして板まで行き、振り返った。
「この漁師たちには無理に頼んだ、咎めないでやってくれ」
兵士が肩を小突いた。
「それはおまえが決めることじゃない」
ティセアがさっと板を渡って行くので、絹らしき上等の寝間着を着るような女が平気で板渡りをするとはと驚いた。巡回船側で兵士が手を貸そうとしたが、ティセアが断って、すっと甲板に降りた。
板を外し、静かに漁船から離れていく。漁師の娘がしばらく見送っていた。
さきほどの男は兵士長だったらしく、岸に戻れと指示した。ふたりに船室に入るよう手招いた。
「湖上では逃げられないだろうから縄は掛けないが、暴れるなよ、岸に着いたら縛るからな」
四半時くらいで着くと椅子に掛けるよう進めた。部屋の隅から杯を持ってきて、出がらしだがとやかんから茶を注いだ。
「ありがとう」
ティセアが丁寧に頭を下げた。兵士長が、最後の茶になるかもなと不敵に笑った。だが、ティセアが頭から被っていた外套を肩まで落として顔を見せたとき、少し頬を赤くしてため息をついた。
「ずいぶんと…」
美しい。しかも、態度も毅然としていて、肝が据わっている。これはただ者ではないと睨んだ。男の方も若いが目付きが鋭く場数を踏んでいるような様子だ。
「詰所で聞かれると思うが、国境を越えてきたのか」
少しためらってからルキアスがうなずいた。
「ウティレ=ユハニは…」
うーんとうなって、考え込んだ。言っていいものかどうかと迷っているようだった。
そのうちに対岸に着いたようだった。外から声がして、船が大きく揺れた。ガタッと音がした。
「着いた」
兵士長が外に出るよううながし、兵士にルキアスをぎりぎりと縛り上げさせた。ティセアはゆるく縛って、ルキアスの外套を頭から被せた。渡し板で石を積んで作ったらしい岸壁に移った。
詰所は歩いてすぐのようで、ふたりは縛られた格好で引かれていった。猟師や村の民たちが見かけてなにごとかと話している。
詰所で兵士長が部隊長らしき男に報告していた。部隊長は、ふたりをちらっと見てから、奥の部屋に連れて行くよう指示した。兵士長がそのままふたりを連れて行った。
「今、部隊長殿が来るから」
椅子に座らせ、自分は立って待っていた。部隊長がやって来て、ふたりの前に立った。
「ウティレ=ユハニから密入国したらしいな。正規の通行証も持っていたのに、何故そんなことをした」
荷物を調べたのだ。ルキアスがきっと部隊長を見上げた。
「関門の街で、駆け落ちと間違えられたので、捕まりたくなかったからです」
部隊長が、ティセアが被っていた外套を取るように兵士長に命じた。取り去った後に見えてきた容姿に部隊長が大きくため息をついた。こほんと咳払いをしてから、尋ねた。
「駆け落ちでなければ、どうして、その、こんな格好で」
寝間着だ。コトの最中にばれて、そのまま逃げてきたと思われてもしかたがない。
「それは…夜に王都が異端に襲撃されて、急いで逃げてきたので」
あながちうそでもない。部隊長と兵士長が顔を見合わせた。
「王都から逃げてきたのか」
ルキアスがうなずくと、兵士長を手招いて何事か話していた。兵士長が頭を下げて出て行き、部隊長だけ残った。
「わざわざガーランドにまで逃げてきたのはどちらかの故郷なのか」
そうだというルキアスに部隊長が首を捻っていたが、あらためて名前を尋ねた。
「名前は」
ルキアスが身を乗り出した。
「ルキアス。お願いがあります」
部隊長が難しい顔をした。
「おまえは捕われてるんだぞ、願いなんて言える立場か」
どうやら兵士のようだし、軍律は解っているだろうにと鼻白らんだ。
「わかってます、でも、どうしても聞いてほしいんです。魔導師学院のアルバロ学院長様にナルヴィクのルキアスが話があると伝えてください」
本当は湖を渡ったら、ガーランド王都に行き、訪ねるつもりだったと言った。
「学院長様って…こともあろうに…」
恐れを知らんのかと部隊長が驚いて目を見張った。コンコンと戸が叩かれて、兵士長が誰か連れてきた。
「お連れしました」
部隊長が胸に手を当てて、頭を下げた。
「お忙しいところ、すみません」
頭巾付きの灰色の外套をすっぽりと被ったそのいでたちは、魔導師だろう。部隊長が、耳打ちして、ふたりを示した。魔導師がゆらっとふたりの前にやってきた。頭巾を背中に落とした。