第205回 イージェンとマシンナートの教授(3)
扉の向こうがなにやら賑やかだった。言い合いしている感じだった。扉が叩かれ、開けるとカサンとレヴァードが立っていた。
「どうしたんですか?」
カサンが中に入れろといい、ふたりが入ってきた。狭い部屋に男が三人もいるときゅうきゅうだった。カサンがため息をついた。レヴァードをつついた。
「どうにもこうにも、こいつがあの女魔導師と寝たいというんだが」
「えーっ!?」
リィイヴが叫んでしまった。思わず口を左手で押さえていた。
「十五年ぶりなんだ、あそこには女がいなくて。アーレの連中とは話す時間もなかったし。シリィのネゴスゥエの仕方教えてくれないか」
コミュンはないだろうが、なにか交渉の仕方があるんだろとレヴァードが屈託なく言ってきた。リィイヴがブンブンと首を振った。
「インクワイァのネゴスゥエみたいなのはありませんよ」
インクワイァもふつうは恋愛関係のある相手と性交渉を持つが、その時だけとお互いに了解すれば、ふだん関係のない相手とも寝ることがある。直接交渉することもあるが、タァウミナル上のコミュン(集合領域帯)で交渉することをネゴスゥエといっている。相手がほしいものはコミュンにアクセスしてリストで気に入った相手を探し、個人通信『白い四角』で『誘う』のだ。もちろん、ワァアク以外にもタァウミナルを使えるインクワイァだけのシステムで、ワァカァにはない。
「そうか、じゃあ、直接交渉するしかないんだな」
カサンが手を振った。
「やめておけ、魔導師なんぞ。きっと殺されるぞ」
もっと言ってくださいとリィイヴが願った。
「まさか、いきなり殺すってことはないだろう?いやなら断ればいいんだし」
「いえ、いきなり殺されるかも!」
リィイヴが大声を上げていた。カサンとレヴァードが驚いてリィイヴを見つめた。
「見た目はかわいい女の子ですけど、ほんとうはすごく怖いんです、マシンナートを容赦なく殺してますから」
とにかく、近寄り難いおそろしいものだと教え込まないと。マシンナートのこの男が気安く『誘おう』ものなら、きっと自分のことも同類と思うに違いない。そんなことなったら大変だ。
「うーん、でも、きっとあのままあそこで死んでたんだから、だめもとで言ってみるかな」
まずい。
「せ、せっかく助かったのに、そんなことで死んでどうするんですか!」
リィイヴが立ち上がって、レヴァードの襟元を掴んだ。レヴァードが眼を見開いた。
「やけに止めるな、もしかして」
レヴァードが不審そうにリィイヴを見た。扉が開いた。アートランが立っていた。
「リィイヴ、ちょっと」
手招かれて部屋の外に出た。
「なに?」
アートランがつきあえと甲板に連れ出した。
「やらせておけよ、痛い目に会うだけだから」
リィイヴが珍しく赤くなった。
「エアリアにあのヒトと同じに思われたくないんだ」
「思わないよ、姉さんは」
リィイヴが少し冷たい夜風に当たって眼を細めた。
「姉さんって、君たち、兄弟なの?」
アートランがうなずいた。
「魔導師に親も子もないけどな、兄弟はなんかいいなと思って」
リィイヴがファランツェリや他の兄弟のことを思い出してみた。みんな、パリスの子どもであることで高慢でわがままだ。皮肉なことに自分もあの事件がなければそうだった。
パリスの七人の子どものうち、一番最初の子どもは、突発性クラクスェン症という、乳児特有の病気で死んでいる。メディカル分野の発達が進んでも根絶できないもので致死率が高いのだ。二番目はすでに教授で、第四大陸のユラニオゥム精製棟の副所長、三番目は助教授、キャピタァルにいる。四番目はリィイヴ、五番目と双子の六番目は確かフロティイルの副艦長と機関士長のはず。七番目がファランツェリだ。七人が全て優秀種ではない。推定数値が優秀種だった一番目は、乳児のうちに亡くなったので確定ではない。あとはリィイヴとファランツェリだけだ。
…フロティイル、今も極北かな。
フロティイルは、『浮島』と呼ばれる、大型のユラニオゥムマリィンで、モゥビィルやプテロソプタを運ぶことができる。浮上して航行すれば、空母ポォルテゥウルにもなるのだ。トレイルへの補給ミッションも行っている。現在稼動しているのは、一基だった。
アートランがふっと後ろを振り返った。
「あのおっさん、ずいぶん命知らずだな」
くくっとおかしそうに笑った。リィイヴが青くなった。
「まさか」
あわてて船室に戻った。エアリアの部屋がどこか、わからないはずだし。
それとも、まだ厨房にいたかも。覗いたがいなかった。
エアリアの部屋の扉を叩いた。返事がないので、取っ手を引いたら開いたが、中は空っぽだった。
「エアリア!」
いや、心配することはないんだ。アートランの言うようにレヴァードが痛い目に会うだけなんだから。後ろから声がした。
「姉さんは後部甲板だぜ」
振り返ると、アートランがじゃあと手をひらひらさせてふわっと浮いて上の部屋に向かっていった。
夕飯の後片付けをしおわったエアリアは、厨房で茶を飲んでいた。ヴァシルは元気がなく、やかんに茶を入れて部屋に戻っていった。廊下に気配を感じた。
「ちょっと、いいか」
レヴァードが厨房の入り口から声を掛けた。話があるので、甲板に出ないかというので、何事かとついていった。レヴァートがしばらくエアリアを見回していたが、頭を下げた。
「おまえと寝たいんだ。ベッドを共にしてくれないか」
エアリアが青い眼を見張った。なんとふざけたことをと思ったが、顔を上げたレヴァードは真面目な顔だった。なにか真剣な感じが伝わってきた。エアリアが首を振った。
「お応えできません」
レヴァートが肩の力を抜いた。
「まあ、そうだろうな」
不埒な真似をしたら、痛い目に会わせてやろうと思ったが、そのようなことはなくレヴァードは手すりに寄って夜の海を見下ろした。
「リィイヴにはおまえにそんなこと言ったら、殺されるかもしれないって言われたけど、おまえになら殺されてもいいかなと思って」
エアリアが眉を寄せた。
「リィイヴさん、そんなこと言ったんですか」
レヴァードがうなずいた。
「マシンナートを容赦なく殺しているって」
それは本当のことだが、なにもそんな言い方しなくてもと少し不愉快になった。
「俺は死んでるようなもんだからな、ここでおまえに殺されてもかまわないんだ」
「レヴァードさん、死んでるんですか?」
意味が分からず聞き返してしまった。レヴァードが困ったような顔で笑った。
「あの海の底にずっといないといけなかったから、死んだのと同じってことさ」
マシンナートたちの住むところは空がなく息苦しいようだが、それ以上にあの海の底は息詰まる感じがした。
「エヴァンスという大教授のところに行けばなんとかなるのでは」
レヴァードがうなだれた。
「どうかな」
後ろで足音がした。振り返ると、リィイヴだった。息を切らしている。レヴァードが手すりから離れて、船室に戻ろうとした。リィイヴとすれ違いざま、手を上げた。
「断られたよ」
そのまま船室に入っていった。リィイヴがこわばった顔で見送った。エアリアに近付こうとしたが、足が止まった。
エアリアがそっぽを向いていたのだ。何か言わなきゃ。
「エアリア、あのヒト、ヘンなヒトだから、何言われても気にしないで」
エアリアは怖い顔をしていた。
「レヴァードさんはそんなにヘンなヒトじゃありません、それより」
なんだろ、すごく怒ってる。
「わたしが、マシンナートを容赦なく殺してるって言ったそうですね。そんな、人でなしのような言い方しなくたって」
気に触ったのか。
「ごめん、あのヒトがその、君のことを…」
言いにくかった。怒ったエアリアがリィイヴの横をすり抜けていこうとした。とっさにその腕を掴んでいた。
「待って」
かわされると思ったが、エアリアはかわさなかった。
「ごめんね、あのヒトに警告したかっただけなんだ、君に近付かないでほしくて」
リィイヴが勢いのままに抱き寄せた。もう怒った顔はしていなかった。
「君は人でなしなんかじゃないから」
顔を近付けて、口付けした。エアリアは拒まず、少し震えながらリィイヴの背中に手を回した。このままこの場で押し倒したいのを我慢して、そっと唇を離して、囁いた。
「…ベッドに行こう…ねっ?…」
エアリアが顔を赤くしてうなずいた。ついにやったと抱きかかえるように船室に向かおうとした。そのとき、エアリアが急に眼を見開いて、リィイヴから離れた。
「エアリア?」
エアリアが勢いよく頭を下げた。
「すみません!師匠に今夜はぐっすり眠れと言われてました!」
そして、さっと飛んで船室に入ってしまった。
「…えっ…」
呆然と立ち尽くしてしまった。
「はあ…」
がっくりと膝を付いた。
船長室の隣の部屋で、アートランがアヴィオスにリィイヴとエアリアのことをおかしそうに話した。
「まったく、姉さんは、仮面に言われたからって、あそこまで行ってるのに。リィイヴがかわいそうだよなぁ」
けらけら笑っているので、アヴィオスが呆れてたしなめた。
「そんなに笑ったらリィイヴに悪いぞ」
アートランが床に寝転がって、胡坐をかいて書物を読んでいるアヴィオスの足に触れた。
「アダンガル様、しようか」
アヴィオスがその手をぎゅっと握ったが、突き放した。
「セレンがいるのに、何を言っているんだ」
アートランがくるっと仰向けになった。
「…セレンは仮面のとこに戻るよ…」
沈み込んでいる様子にアヴィオスがアートランの首の傷をそっと撫でた。
「おまえらしくもない、ずいぶんと弱気だな」
恐らくセレンの心を読んでそう思うのだろうから、本当なのだろう。
「…アートラン…」
アヴィオスが書物を床に置いて、アートランの額に触れると、アートランがアヴィオスの顎に触れた。
「また髭伸ばせよ」
優しく目を細めたアヴィオスが顎を引いた。
夜明け前、アートランは船を離れてあの島に戻った。セレンの布鞄をもってこようとしたのだ。
怖くてセレンの心を覗くことができなかった。もし、自分のことがひとかけらもなかったら。仮面のことだけで埋まっていたら。
このまま戻らないでいようかとも思った。だが、そう思うととても苦しい。側にいたい。
島の海岸の形が変わっていた。茅葺の小屋は跡形もなく、もちろんセレンの鞄もなくなっていた。
「俺が波立てたからか」
洗い流してしまったようだった。大切にしていたようだし、また嫌われるかなとため息をついた。
藪の中でグルルゥゥという声がしたので近寄ってみると、ラックラムが見上げてきた。
「おまえか」
湯を浴びにいったときに一緒についてきたラックラムだった。
「そうだ」
思いついてアートランはラックラムを抱き上げた。