セレンと海の獣《セティシアン》(4)
イリィとヴァンが船倉から厨房に戻ってくると、イージェンが待っていた。
「どうだ、一杯やるか?」
杯を差し出した。酒瓶がないが、と不審な眼で見回した。杯をいくつか持たされて、船長室の隣の部屋に入っているよう言われた。ふたりが入ると、中は調度品がほとんどなく、床に毛足の長い絨毯が引かれていた。
「お疲れさま」
リィイヴが声を掛けた。すでにリィイヴとサリュースが絨毯の上に座っていた。すぐにイージェンも入ってきた。大きな樽を抱えていた。床にどかっと置き、あぐらをかいて座った。
「イリィもなかなかの酒飲みだそうだからな、リィイヴとふたり、これくらいないと足らんだろう」
サリュースが書物を膝の上に広げて眼を落とした。
「まったくどこが経費を出してると思ってるんだ」
今回の旅もこれだけの大所帯、食料や水だけでもかなりの負担だ。滞在先のティケアでもそれ相応に掛かるだろう。
イージェンが樽の口を外し、水差しに酒を注いだ。
「ヴァブロ公が俺の精錬した茶がほしいというので、代わりにいい酒をくれと言ったら、こいつを寄越したんだ。ヴァブロ公は二樽でも三樽でもいいと言ったぞ。学院のふところは痛めてないから心配するな」
サリュースが蒼白になった。
「魔導師が精錬した道具を売るような真似は禁じられているんだぞ!ま、まったくおまえというヤツは!」
精錬した道具は、学院が許可し、手続きを踏んで宮廷を通して配布する以外は禁じられている。この調子だと、リュリク公に精錬した剣でも売りつけそうな勢いだ。
「このくらいでいちいち目くじら立てるな」
水差しからみなの杯に酒を注いだ。肩を落としているサリュースに杯を差し出した。
「俺の代わりに飲んでくれ」
サリュースが仮面を見て、戸惑った。さらに押し付けられてしぶしぶという顔で受け取った。
「一杯だけだぞ」
仮面が縦に動いた。
エアリアは食事の後、湯を沸かしてたらいに入れ、髪と身体を洗い、櫛で髪を梳いた。梳きながら、次第に胸が高鳴っていくのを止められなかった。
「殿下…」
もし今夜、夕べのように扉を叩かれたら。きっと…開けてしまう…。
叩かないで。
ふと扉を見た。静かに閉じている。
いいえ、叩いて。
いつもは魔力で気を張っているが、今夜はそれを解いた。
扉を叩く音がした。エアリアの髪を梳く手が止まった。
「…エアリア、俺だ…部屋に、入れてもらえるか?」
エアリアの髪を梳く手が動いて、櫛をテーブルに置いた。
扉の前では、ラウドが緊張で両の拳を握り締めていた。ようやく思い切って扉を叩き、声を掛けたがすぐ返事がなかった。
だめか…エアリアが望まないなら…。
あきらめるしかない。拒むという気持ちも大切にしなければ。立ち去ろうとした。そのとき、キィッと音がして扉が開いた。
「…エアリア…」
扉の隙間にうつむいているエアリアがいた。扉を開けて、ラウドを入れた。
狭い部屋で、ベッドと机、用桶や水桶のある小部屋があるだけだ。座るところがないので、エアリアはベッドに腰掛けるよう、示した。火桶で沸かしていたやかんで茶を入れた。
所在無くラウドが窓の外を見た。雨が降っていた。魔力で包まれているようで、雨ははじかれて船には届いていなかった。
「どうぞ」
エアリアが茶を差し出した。
「あ、すまん」
受け取る手が少しぎこちなくなった。気持ちを落ち着かせようと、ふうと吹いて冷まし、ゆっくりすすった。
甘かった。氷砂糖を溶かしてあった。飲むのをやめて突き返した。
「甘いぞ、入れなおせ」
受け取ったエアリアが机に置き、自分の分の茶碗を持って座った。
「お好きでしょう?無理なさらず飲めばいいと思います」
そう言って、自分がすすった茶碗を差し出した。ラウドがその茶碗を受け取って飲んだ。
「甘い…」
エアリアが微笑んだ。
「わたしも、甘いのが好きです」
その微笑みの愛らしさにラウドは身も心も高ぶった。茶碗の中身を飲み干し、返すと、エアリアが身をよじって机に置き振り返った。ラウドの顔がすぐそこにあった。頬にラウドの指先が触れた。
「エアリア…好きだ…」
引き寄せられた。
「殿下…わたしも…好きです…」
見つめ合った。幼い頃から幾度となく互いの姿を映しあった瞳。でも今その瞳は幼さを脱ごうとしていた。
「そなたがほしい…」
エアリアは、答えるかわりに眼を閉じてそのまま胸に顔をうずめた。小さな身体を堅く抱きしめながら、ラウドが吐息をついた。
「名前で呼んでくれ…エアリア」
エアリアがささやいた。
「ラウド様…」
ラウドの指がエアリアの顎を上向かせ、小さな唇に熱い唇を重ねた。