一、
「で、今日はなんのようだ?」
そして、キナサと呼ばれた少年がそう切り出すと、少女はぺろっと舌を出して小首を傾げた。
「あら、気づいちゃった?」
「当たり前だろう。お前が話しかける時など、ろくな時がない」
そう皮肉気にいうと机に肘をついて頬杖をついた。横目で少女を見ると、筆記用具を出して椅子に座った。
「新聞部の依頼でね、各学年のトップの勉強法教えてもらってこいだって。だから、教えて」
「夜に暗記系統をやって朝に演習問題だ」
「え?」
夜に、社会の用語、理科や数学の法則、定数、公式を覚え、朝に数学や化学などの問題演習をやる。予習復習は教科書を読むだけだと手短に済ませて背もたれに背をつけた。
「それを、毎日継続すると、少しは良くなるだろ。中学のときの数学の先生が良く話していたことなんだが、忘却曲線ってやつがあるらしくて、仮に完全に覚えた状態を一日目、百パーとすると、七日後は二十パーしか覚えていない。つまり一週間後には約八割がたを忘れてしまう。だが、それを毎日繰り返し勉強すれば、百パーに限りなく近い形の記憶で定着する。たとえ忘れたとしても、一割から二割に抑えられるらしい」
「へえ、忘却曲線?」
「ああ。だれの忘却曲線かは忘れたが」
何せ、もう何年も昔の話だからなと肩をすくめた彼の謎は、もう一つある。
何回留年したかだ。
それを語る人はなく、ただ、何回か、二年や三年とも親しげに話しているところを見たことがあると噂になっている。
「何年前?」
「さあな」
そうはぐらかすのが常だ。突っ込んだ話をしたくないのか、隠したいのか、入院した理由と何回留年したかということに関してはあいまいにはぐらかす。最も、それ以外のことを聞いてくる人はまれだ。
「朝に演習で夜に暗記系統と、で、なにで夜なの?」
「睡眠があるからだ」
「睡眠?」
「ああ。眠るということは記憶を整理するということだ。記憶を整理する直前に物事を詰め込んでやれば、いい形で記憶できると。朝にそうしても、先程の忘却曲線の話もそうだが、忘れるだろう? だから、忘れないうちに寝ちまうんだよ」
へえという顔をしている少女に、突っ込むように少年が言った。
「だが、睡眠学習と銘打って授業中に寝ることは点数が低くなる。勉強の基本になるところをわざと聞き逃しているからな」
勉強法についての講義が終わった少年は深くため息をついて、正面に向き直った。少女はカリカリといわれたことをメモしている。
彼らを取り巻く人々は、ざわざわとしている。半日ぶりに出会った友人とつかの間の会話を楽しみ、ふざけ、じゃれあう。そんな日常とはかけ離れた二人のように見える。だが、それも日常。同級生という肩書きを持つものは彼らがいないように日々を過ごす。
たとえ、二人がいなくなっても、机が少なくなった程度としか思わないのだろう。そんな人たちだろう。
やがて、担任の教師が現れてホームルームを開始した。それをまともに聞いている生徒はほんの一握りだろう。少年もまた、ふいっと、窓の外を眺めていた。
窓の外は薄暗く、暗い雨が降っていた。どこまでも突き落とすようなほの暗い、妖しげを伴った深い雨。
「鬼無里」
教師に呼ばれてはっと我に返って教師を見ると図書委員は昼休みに図書室集合だといった。その言葉にうなずいて、少年は、鬼無里優はまた、なにもなかったように窓の外に目を向けてため息をついた。
雨の日は、とても憂鬱だ。
そう心の中で呟きつつ、茶色いグランドへと落ちる雨を見つめていた。
ベランダの手すりの間から見えるアスファルトの黒と、グランドの茶色が一瞬紅に染まって見えた。目を細めて、それを振り払い頬杖をついた。なにもする気が起きない。
はじまった授業をさらりと流しつつ、板書を適当にかく。
それほど字が汚いというわけでもない優だが、今日のノートの字は特に汚かった。やはり雨のせいだろうか。
取り留めのないことを考えながらさらさらとノートを取り、あっという間に授業が終わり、昼休みになった。
図書委員の集まりがあるが、保健室に行くということを女子の図書委員にいって保健室に直行した。