三、
優は、ただ、呆然と、菫がいた辺りを見つめて震えていた。
「さ、始めようか、狂戦士よ」
「……」
楽しげなその誘う声も、菫を浄化するために慌てた声も、優には聞こえていなかった。
「……」
聞こえたのは、あの、雨の音だ。
そう、あの時も、こんな風に雨が降っていた。
朱に染まったもみじも、黄色く色づいたイチョウの葉も全て雨にぬれていた。
ふわりと香るキンモクセイ。
血の匂い。
雨のにおい――――。
「……ああ」
優の頭でなにかがはじけた。
手の内にある刀を握りなおして鬼をまっすぐ見据えた。
鬼も、刀を構える。
「……鬼無里」
ふっと隣に降り立つ気配。それが流のものであると気づくまでしばらくかかった。
「時間がない。御山の娘の体が持たなくなる」
「わかっている」
優の静かな言葉に流がそっとため息をついて背を向け、浄化の術をかけられている菫を見る。
「……」
そんな流に目もくれず優は一歩一歩足を踏みだしていた。
「……今度は意識のある狂戦士か」
「……ああ」
腹のそこにある殺意はそのままで、頭だけが冴え渡っていた。
いつの間にか駆け出した優に鬼もまた駆け出す。紅い刀は月に冴え、妖気を帯びて万物を切り裂こうとする。
さえぎる銀色。はじき返して目を細めて口の中でなにかを唱えはじめた。
「なにをぶつぶつと呟いている」
優の刀の刃がだんだん炎をまとっていく。
「この手は、人の手にあらず神の手にあり。ただ全てを許し、全てを慈しむ」
優の雰囲気が刻一刻と変化する。憎しみよりも激しく、殺意より静かな、どこか苛烈さの中に凪いだものを感じさせる――。
「この手にある刀は神の刀。現世、常世全てを清め母をも切る」
刀の内部に宿った炎が顕現し刃や、優の手、腕に絡みつき燃え上がる。
「すなわち神殺しの剣」
優の姿が一瞬消え鬼の傍らに現れる。
「縮地か」
鬼の冷静な言葉。鬼もすぐに逃げるが、優がそれを回り込む。
「……」
鬼が深紅の刀を一閃しまわりこんだ優に刃を突き出す。炎をまとった刀でそれを受け止めた優は、溶けるようになくなった鬼の刀になにもいわずにそのまま鬼の首筋を切り裂いた。
「っく」
鬼が首筋を押さえながら飛び退る。それを追って優がぬかるむ大地を蹴る。
鬼の手が一閃される。
握られたのは一振りの直刀。まだ、祭られていた頃のであろうその神刀の輝きはさびついたように鈍っている。
刀と神刀が交差する。
火花を散らし、浄化の焔が神刀を包み込む。
神刀の鈍った輝きが鋭さを帯びて、紅くなっていく。
そして、交錯した空間が、紅く、朱く、はじけた――――――。
光が収まったそこには、一振りの神刀がぬかるんだ大地に突き刺さっていた。
「鬼無里」
静かな声に、優が振り返る。
鬼は、神刀の脇に、半ば欠けた状態でうずくまっていた。
「……元は、豊穣の神だったのか」
優の静かな言葉に鬼は、白い面を上げて妖しく笑う。
「だから、なんだというのだ? 我は今も昔も変わりはせぬ。たとえ、その豊穣が人のものか、あの世のものかということで違うとしても」
「……」
その言葉に優は黙って、そっとため息をついて刀を握りなおした。
「もう、二度とよみがえるな」
「いいかねるな。我をよみがえらせるのは人の子の想いよ」
崩れていく体を気にもせずに鬼は立ち上がり、また、神刀を手にとる。
「さあ、……はじ、め…」
足が崩れ、かろうじて残っていた胴も崩れ去る。左腕もすでになく、身体を支えるものを全て失った鬼はそれでも、優を見上げて笑う。
「さあ……。陰狩りよ。卑しき鬼を狩る、高貴なる官吏よ」
指先が消えながらも、地を這いながらも神刀を振おうとする鬼に、優は、静かに見下ろして、なにもいおうともせずに、その顔に刀を突き刺した。