三、
ざわりと空気が濃度を変えたのに気がついた。ほぼ直感で菫を突き倒して後ろに刀を薙いだ。
黒い影が腰の辺りから真っ二つになる。
周りを見渡して目を細めて警戒する。
菫の驚いた目が優に突き刺さる。
「なにが」
「黙ってろ」
最善は、今、菫を連れて逃げること。だが、それを刀が許さなかった。
数多の血を吸ったある種憑喪神である刀は明確な意思を優に表示していた。
すなわち、血。あるいは精気への欲求。
その欲求を満たしてやらなければ優から取られるのだ。
万年無表情なのはそのせいだ。精気を搾取されている苦痛。
左腕から心臓に手を伸ばして掴み取られるような鈍痛。
刀を顕現し戦っている時には薄れる、今となっては慣れた痛み。
「数多の力を失い、今、ここに亡者として顕現する愚かものどもよ。その姿を現し、我が目に晒せ」
その言葉に呼応するように、菫と優を囲む黒い影がある。闇の眷属。あるいは、一般的に霊と呼ばれる人の感情。
「……鬼の眷属か」
そして、鬼とは、その感情をそそのかし、操る存在。それは時たま、神として崇め奉られる。
「鬼?」
「……」
なにも知らない菫が聞き返した言葉を無視して完全に囲まれているのを確認した優は一つ深呼吸して催促するように強くなっていく心臓の痛みを押さえつけた。
「ひれ伏せ。亡者どもよ」
右手に刀を持ち左手で剣印を結んだ優はその言葉を合図としたように飛び掛かった影人を一太刀で薙ぎ払った。
そして、その奥にいた死んだふりをしていたらしい鬼の胸にまっすぐ刀をつきたてた。
「……」
絶命したらしい鬼の胸に刺さった刀を真一文字に薙いで刀を出した。鬼の赤黒い血が刀にまみれる。
これだけやれば痛みも薄れてくれるだろう。死体に突き刺しながら優は思った。
血を払い刀を鞘に収めて溜め息をついた。白い頬に返り血が一筋ついていた。すうっと鋭い顎の線を通ってその先から時雨れる。
「鬼無里くん?」
深くため息をついて目を伏せた。なにも感じない。ただ、状況を彼女に説明して忘れてもらうことが最善だ。
だが、伝えなければならない事実と伝えたくない事実が同時にあったのであれば、どうすればいいだろうか。
そう思って優は目を伏せた。左手の刀を消して深くため息をついて菫を振り返った。ふっと、鋭い瞳をした友の顔にかぶる。
「鬼無里くん?」
「……いいや、なんでもない。すまない」
もう一度ため息をついて腰を抜かしてしまったのだろうか、ぺたんと座ったままの菫に手を差し出した。
「大丈夫か?」
差し出された手を見て優の顔を見て菫は月明かりでもわかるぐらいに顔を赤らめた。
やがてその手を取って立ちあがった菫の表情を見てみると不安そうな顔をしていた。
無理もないだろう。あまりにも現実的で非現実的なことが、そんな矛盾したことが目の前で繰り広げられていたのだから。
「うん」
うなずいて面を伏せた菫にため息をついて手を離してやって背を向けた。
「今日はもう遅い。今日のことは忘れるか、明日、電話してくれ。明日も学校に行かない」
忘れることはできないだろうなと思いつつも、携帯のアドレスだけを菫に渡してその場を立ち去った。
立ち尽くす菫と、逃げるようにその場を離れる優。
月明かりだけがその光景を静かに見ていた。