三、
――雨が降っている。
空を見上げながら、優は深くため息をついていた。
黒のスーツに白いワイシャツ。ネクタイは紺色の無地のもので、今から葬式に行きますというような格好の自分にため息をつきながら、そっと顔を前に戻した。
持っていたカバンから折りたたみの傘を取り出して差した。
無表情に、町を歩いていく。向かう先は勘が導いてくれる。
気が赴くままに歩いて、ふっとうなじを氷の手が掠める。
ふっと横を見ると、暗い雑居ビルのデッドスペースにのそりとなにかが立っていた。ふっと身を隠すように闇が動いたのを確認してその中に入っていった。
「……ただの浮遊中の雑魚か」
優の目には五体の浮遊している影が見えていた。
普通の人にはあまり見えない、この世の者ではないなにかの影。この世にいてはならない者。
それを優たちは、それを狩るもの達は、霊と呼んでいた。
「……さっさと帰んな。お前達がいても、むなしいだけだよ」
その言葉にうなずくように影は動き、ふっと霧散した。
普通はこのように、納得させるとあの世に帰るのだが、まれに、納得せずに駄々っ子のようにこの世にとどまる影がある。それを狩るのが、今の優の仕事だ。
「いつも、簡単に事が運べばいいんだけどな」
そう呟いて、空を見上げた。不規則に立ち並んだ古い雑居ビルに切り取られた灰色の空は暗く、流れていた。
しばらく、そうしていた優だが、やがてため息をついて肩を落として表通りに戻り進んでいた方向にまた、歩を進め始めた。
「優」
名前を呼ばれて、ふと振り返った。目線の先には、一人の男が立っている。優と同じような格好をして傘を差している男は優を見てそっと耳打ちをしてきた。
「緊急の依頼だ。影狩りをしろ」
「どこのですか?」
優が勤めているともいえる、とある組織の上官に尋ねると男はふっと笑った。
「ここ最近、ざわついているのはわかるだろう」
ざわついているのは先程のような影だ。
いつもは用があるからこちらに来ているのに、先程のように用もなくただそこらにただよっている影の存在がここ最近増えている。害をなす存在ではないから良いものの、それでも異常事態なのだ。
「その原因が、鬼だ。お前と塁をやった白い鬼ではないが、それなりに強い鬼だから用心しろ。応援はこれない」
「最近、そういうことが多いですね」
「俺たちも忙しい。お前の力を信用してんだ」
男はそう返して何事もなかったように立ち去った。周りの人々は忙しそうに動いている。それを尻目に優は深くため息をついて目を伏せて、また歩を進めた。
「信用しているのは俺の力ではなく、これだろうに」
そういって左手を撫でた優はそっとため息をついて、どうしたものかと考え始めた。
ここ最近、鬼が、つまり、影を操れる人のような魔物のような微妙な存在がこの辺りにいるのはなんとなくわかっていた。
だが、それだけだった。刀を使う以外では優にはそれしかできない。
「真夜中に出歩くしかないか」
鬼はしばしば人を襲い精気を吸い、糧とする。
それを狙って、自分自身が囮になるしかないとため息をついた。
雨の日に出歩くのはやめたいなと思いつつも、鼻腔を侵食するあのキンモクセイの匂いに目を細めた。
――濡れた土の匂い。たゆたう花の香り。
――浮かぶは紅。雨に打たれて幾筋となってどこかへと流れていく。
「うっ」
急な吐き気に襲われてその場にしゃがみこんだ。周りの人間が不思議そうに優を見ながらも歩を進める。
なんとか吐き気を押し殺して顔を歪ませて立ち上がった優はその場から逃げるように立ち去った。