序、追憶
この作品の章題の言葉は
『群青三メートル手前』様:真名十題からお借りしました。
冷たい雨が降りしきっていた――。
どこからか、雨に濡れたキンモクセイの香りが立ち上り、ふわりと冷たい風にのって辺りを優しく包み込む。
「約束だぞ。これは、絶対に」
途切れがちな男の苦しげな声と、震える荒いため息。キンモクセイの香りが、生々しい血の匂いと交じり合う。
辺りは雨に濡れて、冷たく沈黙している。
「な、優」
整った顔に死相を確かに宿した少年は自分を抱き起こしている少年にかすかにほほえむ。
ほほえまれた少年は、自分の頬に伝う血をぬぐおうともせずに、彼の腹に、今もなお、紅をこぼし続けている傷口に、手をやって首をふる。
「そんなの、自分でしろよ。なに、自分が死ぬとかいってんだ? おいっ」
「仕方ないよ。俺はもう、だめだ」
「だめとかいうな」
「わかるんだ。自分でも、もう」
尻切れトンボの声に、少年は泣きそうに顔を歪めて首を振っている。駄々をこねているようにも見えるその少年の表情に、男は弱々しくほほえみながらも目を閉じた。
「なんか、弟ができたみたいだな」
「バカいうなって。おい」
朦朧としている意識の中、叫び続けている少年の姿を眼に映す。少年は、腹の傷を押さえて、叫び続けている。
――もう、無駄なのに。
「優」
静かな声。
少年はぴたりと叫ぶのをやめて泣きそうに唇を食いしばった。潤んだ瞳が、男の目を射る。
「辛い、思いをさせて、すまない、な」
その言葉に涙が溢れた。
だが、流すまい。歯を食いしばって涙を抑えて男を見つめる。
腹からの出血も、半分止まりかけている。
「最期の、願いだ」
「え?」
「妹を、菫を、巻き込んでくれるな」
かすれた呟きを聞き取った少年は目を見開いて彼を見る。
伝わったことに満足したのか、彼の瞳から急速に光が失われていく。
「おい、塁」
「でも、これは、俺の願いだから。約束、絶対に……」
そこで、言葉が途切れた――。
と、同時に、体の力が全て抜け、その体は重くなった。手を濡らす血も止まり、冷たい雨だけが、ふたりの上に降り注いでいた。
「ふん、死んだか」
どこからか、見ていたらしい、白い装束をまとった、一人の鬼はさも愉快そうに笑っていた。