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短編集

婚約破棄された悪役令嬢、公衆の面前で隣世界の皇太子にさらわれました 〜前世同期の溺愛が重すぎて元婚約者ざまぁ〜

作者: 夢見叶

 王立アカデミーの卒業パーティーは、問題なく終わるはずだった。


 だって、私は知っている。この世界の流れを。


 ここは、前世の私が何周も遊んだ乙女ゲームの世界。

 そして私は、そのゲームの悪役令嬢──アリシア・グランツ公爵令嬢。


 本来なら、今日の夜会で第一王子エドワルド殿下から婚約破棄を言い渡され、そこから追放ルートまっしぐら。

 でも私は、とっくに覚悟も準備も済ませている。


 だから、殿下が壇上に上がった瞬間、胸の奥でそっと深呼吸をした。


「アリシア・グランツ公爵令嬢!」


 きた。


 会場が静まり返る。楽団の音もぴたりと止み、シャンデリアの光だけがやけにきらきらとまぶしい。


 私はスカートの裾を持ち上げて、優雅に一礼する。


「はい、殿下」


「この場をもって、お前との婚約を破棄する!」


 ざわっと、周囲の空気が揺れた。


 うん、台詞、ゲームどおり。完璧。


「理由をうかがってもよろしいでしょうか?」


 私が静かに尋ねると、エドワルド殿下は勝ち誇った顔で、私の後ろに立っていた少女を振り返った。


「お前は、無実のマリア・ベルン嬢を長きにわたり陰湿にいじめていた! 階級を盾に、彼女を侮辱し、罵倒し、泣かせた! そんな者を、未来の王妃として迎えることなどできない!」


 エドワルド殿下の視線の先で、淡いピンク色のドレスを着た少女──マリアが、震える肩を押さえながら、控えめに首を振る。


「ち、違いますわ殿下……わたくしのために、ここまでしていただかなくても……。アリシア様は、本当はとてもお優しい方で……」


 その台詞も知ってる。

 そうやって健気アピールをしつつ、殿下の庇護欲を最大限にくすぐるやつ。


 ゲーム画面の字幕で何度も見た。


「マリア、君は黙っていなさい。これは僕の決断だ」


 殿下はそう言って、私を鋭くにらむ。


「アリシア、お前は罪を認めるか!」


 ……さて。


 本来のアリシアなら、ここで取り乱し、マリアを罵倒し、最悪の形で断罪される。

 けれど私は、前世でブラック企業に耐え抜いた元社畜。理不尽な罵倒なんて、上司から数えきれないほど受けてきた。


 だから。


「そうですか」


 私はふわりと微笑んだ。


「では、喜んでお受けいたしますわ。婚約破棄」


「……は?」


 殿下の顔が固まる。

 そう、その反応が見たかった。


「こ、こんな場で婚約を破棄されているのだぞ!? もっと取り乱すとか、泣き叫ぶとかあるだろう!」


「なぜ私が? 殿下がそう決められたのでしょう? でしたら、私はそれに従うだけです」


 私はゆっくりと姿勢を正し、会場中に聞こえるよう、少しだけ声を張った。


「本日をもちまして、アリシア・グランツ、第一王子エドワルド殿下との婚約解消を正式に承りました。今後、殿下のご決断に口出しするつもりはございません」


 ざわざわ、とささやきが広がっていく。


「あれ、思ってた悪役令嬢と違くないか」「もっとヒステリックな感じかと」「落ち着きすぎじゃない?」


 内心で苦笑しながら、私は淡々と続ける。


「ただ、1つだけ。公爵家令嬢として、この場で明言させていただきます」


 エドワルド殿下と、マリアの方を順に見る。


「私がマリア・ベルン嬢に対して行ったことは、全て記録に残してあります。彼女を指導するよう、教師から正式に依頼されていた時間、内容、同席していた者の名。侍女の証言や、監査官が立ち会っていた日もございます」


 殿下の顔色が、ほんの少しだけ変わった。


「そ、そんなもの……でたらめに決まっている!」


「もしご不安でしたら、後日、証拠を王宮の法務官に提出いたしましょう。公爵家の名にかけて、事実だけをまとめた資料です。ご確認いただいた上で、殿下が今と同じご判断をされるのであれば、私は何も申しません」


「アリシア様、本当にそんな……」


 マリアが私の袖をつかもうと手を伸ばした瞬間──


 空気が、変わった。


 温度が、一度ほど下がったような、ぴんと張り詰める感覚。


 次の瞬間、私の足もとに、淡い青い光の魔法陣が浮かび上がった。


「……え」


 会場中が息を呑む。

 魔力が肌にまとわりつき、髪がふわりと揺れた。


 いや、待って。こんなイベント、ゲームにはなかった。


 私の知るストーリーは、ここで私は拘束され、翌日には修道院送りを言い渡されるはずだ。

 それなのに。


「よかった。間に合った」


 澄んだ声が、どこか懐かしく響いた。


 魔法陣の中心から、長い銀髪を揺らす青年が姿を現す。

 深い海のような蒼い瞳。瑠璃色のマント。胸元には見慣れない紋章。


 ……誰?


 いや、本当に誰?


「やっと、会えたな。リナ」


 青年が、まっすぐ私を見つめる。


 リナ?


 私はアリシアだ。リナなんて名前じゃ──いや、待て。頭の奥がずきんと痛んだ。


 目の前の青年が、少し困ったように微笑む。


「そんな顔をするな。覚えてないのか? 前の世界で、毎朝コンビニの前でコーヒーを飲みながら、愚痴を言い合っていた相棒を」


 ……コンビニ?


 愚痴?


 ブラック企業?


 脳内で、何かがぱちんとつながった。


「……まさか、俊?」


 気づけば、その名前が口からこぼれていた。


 青年は、ふっと目を細める。


「やっと思い出したか。ああ、それだ。その呼び方が懐かしい」


 俊。

 前世、日本の会社で同じ部署だった同期。隣の席で、いつも「つらいな」って笑ってた人。


 でも、彼はたしか──


「電車事故で死んだ、はずじゃ……」


「お前も一緒だっただろうが」


 俊は肩をすくめる。


「俺は俺で、別の世界に転生して、王族の魔導師として育てられた。で、この世界に干渉できるようになるまでに、ちょっと時間がかかったが……やっと迎えに来られた」


 私の頭の中は、混乱と納得でいっぱいだ。


 だって、転生してからずっと感じていた違和感。

 たまに夢に見る、会社の風景。

 なのに、この世界の感情の方がずっと強くて、前世の記憶ははっきりしなかった。


 その断片が、今、一気に色を取り戻していく。


「待て、誰だお前は!」


 状況を理解しきれていないエドワルド殿下が、ようやく声を上げた。


「ここはアレシア王国の王立アカデミーだぞ! 勝手な転移魔法など、許されると思っているのか!」


「自己紹介がまだだったな」


 俊は、殿下に視線を向ける。


「俺はレオンハルト・アイン・シュトラウス。隣の世界、シュトラウス帝国の第一皇子だ」


「隣の世界……?」


「説明はあとでゆっくりする。お前にはちょっと難しいかもしれないしな」


「なっ……!」


 殿下の顔が真っ赤になる。

 俊の言い方、前世のままだ。相変わらず口が悪い。


「アリシア──いや、今はアリシアだな。お前を迎えに来た」


 俊は、私の前にひざまずいた。


 会場中が息を呑む音が、また聞こえる。


「この国の事情も、大体は調べさせてもらった。ここでお前は、理不尽に断罪される予定だったんだろう?」


「……予定、というか、そういうシナリオでしたね」


「俺はそれが気に入らない。前の世界で、俺たちは理不尽に耐えてばかりだった。上司の気分で残業時間が決まり、成果を横取りされ、最後には事故であっさり死んだ」


 俊の声が、少しだけ低くなる。


「だから、少なくともこの世界では、お前にそんな思いをさせたくない。俺の世界に来い、アリシア。今度は俺が、全力でお前を甘やかす」


「……は?」


 甘やかす?


 私?


「ちょ、ちょっと待ってください。話が急すぎます」


「急か?」


「急です!」


 思わず素の口調が出てしまい、周りの令嬢たちが目を丸くする。

 でも、そんなこと気にしていられない。


「私は公爵令嬢です。この国での役目もありますし、家のことも……」


「婚約は破棄されたんだろう?」


 俊は、楽しそうに首を傾げた。


「先ほど、殿下が大勢の前で宣言してくれたじゃないか。これで、お前を縛る鎖はなくなった」


「それは、そうですけど……」


「あと、公爵家のことだが、そっちはもう話をつけてある」


「つけてある?」


「お前の父上、なかなか話の分かる人だったぞ。『娘の幸せが第一だ』ってな」


 それを聞いて、私はぽかんと口を開けた。


 父様……。


「俺がアリシアを正式にシュトラウス帝国の皇太子妃候補として迎えたいって伝えたら、最初は驚いていたがな。資料を渡したら、すぐに『あの馬鹿王子との婚約がなくなるなら大歓迎だ』って」


「父様……けっこう言いましたね」


「だって本音だろ?」


 俊は悪びれもせず笑う。


「ついでに言うと、お前がこれまでどれだけこの国のために働いてきたか、公爵家が全部記録していた。財務の立て直し案、貴族子女への教育改革案、辺境への支援の提案。全部、殿下は読まずに放置していたらしいな」


 え、ちょっと待って。


「それ、なんで知ってるんですか」


「調べたって言っただろ。異世界越しに干渉するの、大変だったんだぞ」


 俊の視線が、エドワルド殿下に向く。


「エドワルド殿下。あなたは、国を救う力を持つ人材を、自分の感情だけで切り捨てた」


「な、国を救う力だと?」


「アリシアが提案していた政策が実行されていたら、少なくとも向こう5年、この国の財政悪化は防げていた。辺境の反乱も、起きなかったかもしれない。詳しい数字、見せましょうか?」


 俊が手を振ると、空中に魔法の文字が浮かび上がった。

 そこには、私が夜なべして作った資料の内容が、きれいに整理されて表示されている。


 え、なにこれ。ちょっと感動してしまった。


「で、マリア・ベルン嬢」


 俊の瞳が、今度はマリアをとらえる。


「あなたの本性も、少しだけ見せてもらった。裏でアリシアの悪評をばらまきながら、自分は庇うふりをして、殿下の信頼を独り占めにする。なかなかの策士だ」


「……っ、わたくしは、そんなことしておりません」


「そうか?」


 俊が指を鳴らすと、今度は別の映像が浮かび上がった。


『アリシア様って、本当に嫌な人なんですのよ。わたくしにだけ厳しくて……でも、殿下には絶対言わないでくださいね? わたくし、殿下のご迷惑にはなりたくなくて』


『あの女が公爵家だからって調子に乗ってるだけよ。平民出のわたしたちの気持ちなんて、分かるわけないわ』


『アリシア様がいなければ、殿下はきっとあなたの方を向いてくださいます。だから、協力してくださいますわよね?』


 ……私の知らないところで、好き放題言ってましたね、この人。


 会場内の空気が、一気に変わった。


「マリア様、あれは……」「聞き覚えが……」「私も言われたことが……」


 周囲の令嬢や子息たちが、ざわざわとマリアから距離を取る。


「ねえ、殿下?」


 俊が穏やかに笑う。


「あなたが信じていた『無垢で健気な乙女』は、少しばかり計算高かったようですよ」


「ま、マリアを侮辱するな!」


 エドワルド殿下が叫ぶ。


「これは侮辱ではなく、事実の提示だ。もっとも、気づけなかったあなたの見る目のなさは……どうしようもないが」


「この、無礼者!」


 殿下が剣に手を伸ばしかけた瞬間、王の厳しい声が響いた。


「やめなさい、エドワルド!」


 いつの間にか、会場の上段には国王陛下が姿を見せていた。

 その隣には、私の父もいる。腕を組み、ものすごく冷めた目で殿下を見ていた。


 あ、絶対怒ってる。


「異世界の皇子殿を前に、剣に手をかけるなど、愚かにもほどがある! アレシア王国の面汚しめ!」


「父上……!」


「黙れ。お前は少し、自分の行いを反省する時間が必要なようだな」


 国王陛下の宣言は早かった。


「エドワルド。第一王子の位を剥奪する。お前はしばらく、地方領にて政務の基本から学び直せ」


「な……っ!」


「また、マリア・ベルン嬢については、後日改めて調査を行う。その結果次第では、しかるべき処分を下す」


「そ、そんな……!」


 崩れ落ちるマリア。

 呆然とするエドワルド殿下。


 ああ、これが、いわゆるざまぁってやつか。


 なんて、ちょっと冷静に考えてしまう自分がいる。


「アリシア」


 俊が、私の手を取った。


 その手は、前世のときと同じように、少しだけ冷たくて、でもとても安心する温度だった。


「お前がここに未練があるなら、俺は何も言わない。この国で生きる道を、お前のために整えるだけだ」


「……」


「でももし、少しでも、俺の世界に来たいと思ってくれるなら。俺はお前を、誰にも傷つけさせない。馬鹿な王子にも、腹黒い令嬢にも、理不尽な上司にも」


 前世の会社の上司の顔がちらついて、思わず苦笑が漏れた。


 私は、ゆっくりと会場を見渡す。


 私を冷ややかに見ていた貴族たち。

 今は、誰も彼もが戸惑った顔をしている。


 幼い頃から必死に勉強して、礼儀作法も、政治も、魔法も、全部身につけてきた。

 でもその努力は、殿下の一言で、簡単に踏みにじられた。


 ──少なくとも、この国では。


 だったら。


「……俊」


 私は、小さく息を吸い込んだ。


「連れて行ってください。俊の世界に」


 俊の瞳が、大きく見開かれ、すぐにやわらかい笑みに変わった。


「任せろ」


 その一言が、妙に心強かった。


「父様」


 私は上段にいる父を見上げる。


「勝手をしてしまい、申し訳ありません。でも、私は──」


「アリシア」


 父は、ふっと口角を上げた。


「お前の選んだ道に、口出しはしない。お前は、グランツ家の誇りだ」


 その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。


 涙がこぼれそうになって、慌てて瞬きを繰り返した。


「ありがとうございます、父様」


「もしもその皇子殿が、我が娘を泣かせるようなことをしたら──隣の世界だろうが、攻め込むからな」


「それはやめてくれ」


 俊が苦笑し、会場から小さな笑い声が起きる。


 さっきまでの重い空気が、少しだけ軽くなった。


「アリシア。行こうか」


「……はい」


 私は俊の手を握り返した。


 魔法陣が再び輝きを増す。

 会場の景色が、光に飲み込まれていく。


 最後に一度だけ、エドワルド殿下の方を見た。


 彼はまだ、状況を飲み込めていない顔をしている。


 でも、もういい。

 私の役目は、ここまでだ。


 私は、もう二度と、悪役なんかじゃない。


◇◇◇


 目を開けると、そこは見知らぬ城の大広間だった。


 高い天井。透き通るようなステンドグラス。壁には精緻な彫刻。

 さっきのアカデミーとはまた違う、重厚な空気。


「ここが、シュトラウス帝国の王城だ」


 俊が隣で説明してくれる。


「アリシア、立てるか?」


「大丈夫です。ふらつきはないです」


「転移に慣れてないと、気分悪くなるからな。さすがだ」


 褒められて、なんだか少しくすぐったい。


「俊」


「ん?」


「さっき、ああやって、私のためにあそこまで言ってくれて……ありがとう」


 素直に礼を言うと、俊は少しだけ目を丸くし、それから照れくさそうに頭をかいた。


「礼を言われるようなことじゃない。俺が勝手にやっただけだ」


「でも、すごく気分がよかったです」


 あの理不尽なストーリーを、ちゃんとひっくり返してくれた。

 それが、何よりうれしかった。


「それにしても」


 私はじっと俊を見つめる。


「俊、すごく格好よくなりましたね」


「……お?」


 俊が固まる。


「前世は、いつもワイシャツの腕まくりして、ネクタイゆるめてて、目の下にクマ作ってましたけど」


「おい待て、その記憶を今ここで詳しく出すな」


「でも今は、ちゃんとよく眠れてそうです。その顔色、前よりずっといいですよ」


「それはまあ……お前に会うために、健康管理だけは頑張ったからな」


 ぽそっとこぼれた言葉に、私の心臓が跳ねた。


「な、なんでそこでさらっとそんなこと言うんですか」


「事実だろ。お前に会う前に、薄汚い顔は見せたくなかった」


「薄汚いって、自分で言いましたね」


「お前には、いつでも一番いい状態の俺を見ててほしいんだよ」


 さらっと甘いことを言わないでほしい。

 顔が熱くなっていくのが分かる。


「俊、溺愛って、こういうことですか」


「まだ序の口だぞ?」


 にやりと笑う俊に、ひゅっと喉が鳴った。


「え、まだあるんですか」


「そりゃあな。前世から数えて、何年、お前のこと好きだったと思ってる」


「……え?」


 今、すごくさらっと、とんでもないことを言った気がする。


「前世の時点で、お前のことが好きだった。残業でボロボロになってるくせに、人の資料手伝ってくれたりな」


「それは……困ってたからで」


「お前はすぐそう言う。自分の価値、低く見積もりすぎだ」


 俊が一歩、近づく。


 距離が近い。心臓が忙しい。


「だから、これからは俺が、お前の価値を毎日毎日、うるさいくらいに教えてやる」


「うるさいくらいって、自分で言いましたね」


「後悔するなよ。毎朝起きたら『今日も世界一かわいい』って言うからな」


「やめてください死にます」


「じゃあ、朝だけじゃなく、昼も夜も言うか」


「増えてますけど!?」


 思わずツッコミを入れると、俊は楽しそうに笑った。


「俺の世界ではな、皇太子妃には『専属の甘やかし係』がつくんだ」


「そんな役職あります?」


「今つくる」


「権力の乱用がすぎません?」


「皇族の特権だ。諦めろ」


 くだらないやり取りなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 ああ、こういうのが、ずっとほしかったのかもしれない。

 理不尽な叱責でも、計算された優しさでもない。

 ただ、私のことを大事に思ってくれる人との、こんなやり取り。


「……よろしくお願いします」


 私は、素直に頭を下げた。


「これから、たぶん慣れないことばかりですけど。俊が隣にいてくれるなら、頑張れそうです」


「頑張らなくていい」


 俊が、優しく言う。


「休め。笑え。わがままを言え。泣きたいときは、俺の前だけで泣け。お前が頑張らなきゃいけない世界は、もう終わった」


 その言葉に、胸の奥で、何かがふっとほどけた気がした。


 前世でも、この世界でも、ずっと張り詰めていた糸が、やっと緩んだような。


「俊」


「ん?」


「……泣いても、いいですか」


「今すぐ泣け。俺の胸、空いてるぞ」


「言い方が雑です」


 そう言いながらも、私は一歩近づき、そっと俊の胸に額を預けた。


 あたたかい。


 この温度を、私は知っている。

 前世で、終電を逃した日の帰り道、一緒に歩いてくれたときに感じた、あの隣の温度。


 ぽたり、と涙がこぼれた。


 今まで我慢してきた分だけ、止まらなくなる。


「アリシア」


 俊の手が、優しく私の背をさする。


「よく頑張ったな」


「……うっ、ずるい、です……その台詞……」


「本心だ」


 彼の声が、少し震えている気がして、余計に涙があふれた。


「俊も、頑張ってくれたんですね」


「ああ。お前を迎えに来るためだけに、生きてきた感じだ」


「重いです」


「知ってる」


 でも、その重さが、今は心地いい。


◇◇◇


 それから数か月後。


 アレシア王国から、ときどき噂が届く。


 第一王子の位を剥奪されたエドワルド殿下が、地方で汗まみれになりながら行政の勉強をしていること。


 マリア・ベルン嬢は、のちの調査で多くの証言が集まり、しばらくの間、社交界から距離を置くことになったこと。


 アリシア・グランツ公爵令嬢が提出していた政策案が、今さらになって再評価され始めていること。


 それらの報告を聞くたびに、私は紅茶をひと口飲んで、静かにひとことだけ呟く。


「自業自得、ですね」


 ざまぁ、という言葉をわざわざ口にはしない。

 もう、それは私の物語ではないから。


 私の物語は、今ここから続いていく。


「アリシア、今日は仕事、早めに切り上げたから」


 書類を抱えて部屋に入ってきた俊が、嬉しそうに笑った。


「このあと、一緒にお菓子でも作らないか? この前言ってたクッキー。前世で結局、作れなかっただろ」


「……覚えてたんですか」


「当たり前だ。お前の言ったこと、全部覚えてる」


「全部は怖いです」


「全部だ。『ちょっと高いアイスを自分で買えない庶民の悲しみ』とか、『休みの日に1日中ゲームしてたい』とかもな」


「やめてください黒歴史です」


 手で顔を覆うと、俊は声を上げて笑った。


「今は、クッキーくらい好きなだけ焼けるぞ。材料も設備も、大量にある」


「そうですけど……一緒に作ってくれる人がいるのが、何よりうれしいです」


 そう言うと、俊は一瞬、動きを止め、それから照れくさそうに視線を逸らした。


「お前、そういうときだけ、やたら破壊力あること言うよな」


「お互い様です」


 そんなふうに笑い合いながら、私は思う。


 あの日、婚約破棄を言い渡された瞬間。

 あの理不尽な断罪が、こうして新しい人生の始まりになるなんて、誰が想像しただろう。


 異世界の悪役令嬢として転生して。

 婚約を一方的に破棄されて。

 だけど、その先で、前世の相棒に見つけられて。

 今度こそ、ちゃんと、恋をしている。


「アリシア」


 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、俊がまっすぐこちらを見ていた。


「改めて言う。俺と、一生一緒にいてくれ」


 今度は、婚約破棄じゃない。

 ちゃんと、私の意思を聞いてくれる言葉。


 胸がいっぱいになるのを感じながら、私は笑った。


「はい。喜んで、お受けいたしますわ」


 私の返事に、俊はこの世界で一番幸せそうな顔をした。


 婚約破棄された悪役令嬢の人生は、ここからようやく始まる。

 今度の物語は、理不尽な断罪も、理不尽な上司もいない。


 ただ少し、溺愛が過剰な異世界の王子と。

 何度でも読み返したくなるような、甘くて騒がしくて、幸せな毎日が続いていくのだ。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!


婚約破棄、ざまぁ、悪役令嬢、溺愛──大好物をこれでもかと詰め込んで書いてみましたが、少しでも「ニヤッ」としてもらえていたら、とても嬉しいです。


なろうのシステム上、

評価やブックマークが伸びると、ランキングに載りやすくなって、もっとたくさんの方に読んでもらえるようになります。


この作品も

「婚約破棄×ざまぁ×悪役令嬢×溺愛でランキング上位を目指したい!」

と思っているので、


少しでも「続きも読みたい」「また読み返したいかも」と感じていただけましたら、


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