失感情症的小説家~ジェイソン・マッキーソンの小さな世界~
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外が嫌いだ、怖いのかもしれない――いつしかそう感じさせられるようになり、以来、家にひきこもっている。私はジェイソン・マッキーソンという。くどい響きを多分に含んでいるきらいがあり、それがなんともうっとうしく、だから私は自分の名前が好きではない。そう。開き直って言うと、私はかなりひねくれている。誰かに指摘されずとも、そんなこと、わかりきっている。
子を授かることもなく、妻にはずいぶん前に先立たれた。まったく、運がない。運命なのだろうと思うことにしている。――が、「そこに悲哀を見ないのか?」と問われたら、「私は無能だ」と答えるよりほかにない。
残りは多くないであろう、搾りかすのような人生。
自死しようとまでは考えないが、無論、満喫、謳歌するつもりもない。
書斎の大きな窓の向こうに曇り空を眺めつつ、グラスに口をつけ、すっかり氷が消えてしまったウイスキーをすすった。苦み走った深い悲しみの味に、虚無と寂しさがあらためて溶けた。
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二十歳――まだ学生の折に、歴史を有し、威厳にも満ちた栄誉を、私は獲得した。なにせまだ若かったものだから、文壇をえらく騒がせるにまで至った。私自身、純粋培養の自由気ままな文学作家を標榜しており、それに則した賞であるものだから、宇宙ロケットになりたくなるくらいの嬉しさを覚えた。当時、付き合いだしたばかりののちの妻――も、一緒になって喜んでくれた。彼女も作品を書き、応募したのだが、見向きもされなかった。その点、私は意外でしかなかった。同じ目標を掲げる友人は幾人かいて、中でも彼女が最も「近い」と考えていたからだ。選考委員の連中は見る目がないなとなかば憤るとともに、所詮は彼らもニンゲンなのだなと妙に納得したりもした。私の本は売れた。しかしそれも、やはり「若さ」というファクターが少なからず後押ししてくれた結果だろう。そう思ったから続けて書いた。書きつづけた。俗っぽい男だったのだ。書けるだけ書いて、金銭を得た。そうすることに、またそうあることに、意味と意義があると考えていた。名声欲や承認欲求も醜いほどにたぎっていた。妻になってくれた女性――に、いい思いをさせてやりたかったという気持ちもなくはなかったが。今となっては、どんな理由も言い訳に過ぎないと考える。欲望のままに脇目も振らず、私はただ醜いまでに心に従順に、ひたすら書いたというだけだ。
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業界に身を置くうち、次作を書かないことでむしろ過大評価される作家が少ないことを知り、なんだかこう、萎える思いがした。しかし、だからといって、筆が速いことが悪だとは考えなかった。剥き出しの自らの感情、あるいは精神性を、カラフルで大小まちまちなオブラートに包んで世に送り出す。言葉は変幻自在で、ゆえにいかようにでも鈍く輝くわけであり、そのあたりの微妙な匙加減を調整、あるいは調節することが面白かった、楽しかった。
面白かった、楽しかった。
そう、もはや過去形だ。
昔から散財の悪癖はなく、それどころかアルコール以外の趣味もなく、だから今はたくわえだけで食っている。七十七歳。妻に先立たれてから、もう三十年にもなる。ああ、そうだった。笑顔であることをなによりの美としていた彼女はほんとうに美しかった。願いが叶うとするなら、また彼女に会いたい。指先の一つすら、触れられなくたっていい。遠くから眺めるだけでもいいんだ。――と、私の思考はしばしば飛躍し、ゆえに脈絡がなく、そのへんが原因で、シーケンシャルさに欠ける旨を担当の編集者から指摘されるようになったのだ。うまく物語を紡げなくなってしまったということだ。
ジェイソン・マッキーソン。
すでに錆び付き、埃にまみれた識別子でしかない。
生まれてきた命に与えられた真新しい記号のほうが、よっぽど上等である。
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見るからに重苦しい曇天、雨がしとしとと駄々をこねる、ある日の朝、ヒトが一人、訪ねてきた。茶色いおさげ髪の少女で、左右の頬にそばかすが散っていた。良く言えば純朴そうな、悪く言えば田舎くさい、そんな人物だ。年格好からして高校生くらいではないだろうか――なんとなくの判断でしかない。
開口一番、少女は「わたしの小説、読んでください!」と言った。はつらつとした声、表情、期待に満ち満ちた目、瞳。私は白い無精髭が茂った顎を右手で撫でると鼻から息を漏らし、「この娘さんはいきなり何を言い出すんだ」と感じつつ、短く「帰りなさい」とだけ告げた。すぐに振り返り、引き返そうとする。そしたら、ズボンのベルトを掴まれた。ぐいぐいひっぱられる。大柄な私はびくともしない次第だが、それでも続けた。少女は「待ってください」を連呼する。
「私は老人とはいえ男性だ。わかるだろう?」
「おじいさんだし男のヒトですけれど、それ以前に小説家です」
私は眉を寄せ、目線を上にやった。
妙なことを口にする少女だと思わざるを得ないというのが素直な感想――。
「お嬢さんは私のことをご存じのようだ」
「ジェイソン・マッキーソンの名前は誰でも知ってます」
「そうではない。どうしてここがわかったんだと訊いたんだ」
「『アロー出版』の方に伺いました」
アロー出版。
ジェイソン・マッキーソンの本を最もたくさん作ってくれた会社だ。
振り向き、視線を少女にやり、私は「彼らがここを?」と訊ねたのである。
「はい。目的を話したら、案外すんなり教えてくださいました」
少女はお伺いを立てるような、おずおずといった面持ちで、「あのぅ、マズかったですか……?」――。
ベルトから手を放すように言い、それが成されたところで、私は少女のほうに向き直った。
「きみがマズいのではない。出版社の連中がマズいんだ」
「どうしてですか?」
「どこの馬の骨かもわからないニンゲンに、ヒトの家の住所を簡単に教えるなという話だ」
すると少女は不服そうに心外そうに「馬の骨ではありません。わたしはココです。ココといいます」と言い、両の頬をぷくりと膨らませた――かと思うと、くちゅんと小さなくしゃみをした。頼りなげな細い身体をぶるるっと震わせ、「寒いです寒いです寒いです」とそれぞれの手でそれぞれの肩をさする。
やむなく、「入りなさい」と告げた。
少女は無邪気さ満点に「わーい、優しいおじいさんなのです」と喜んでみせた。
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綺麗な書斎ですねーっ。
タオルで髪も身体も拭き終えたらしい少女は部屋に入ってくると声を弾ませそう言ったが、「綺麗な書斎」であるわけがない。そこかしこにさまざまな書籍が山積みにされていて――掃除だって年に一度しかしないのだから。
私はやれやれと首を横に振りながらデスクにつくと、グラスに手を伸ばし、琥珀色のアルコールをすすった。
「朝からお酒ですか? 身体に良くないですよ?」
まったく、やかましい少女である。
「雨があがったら帰りなさい」
「奥様を亡くされて、やさぐれちゃったのですか?」
つくづく、やかましい少女である。
「言い直そう。今すぐ帰りなさい」
「そうもいきません。言いましたよ? 小説を読んでください、って」
その旨、耳にはしたが。
「どうして、私なんだ?」
「決まっています」少女はにっこりと笑った。「憧れの大先輩だからです」
読んでやるって言ってくださるまで帰りません!
少女はそう、言い切りもした。
「お暇なのでしょう?」
それは間違いない。妻を亡くした話だって、どうせ口の軽い知り合いが何の気なしに話したのだろう。
「ご作品、ちょうどイイカンジの色気が出て、脂が乗ってきたところで途絶えてしまったのです。わたしはそれがもう残念で残念で」
「きみには関係ないだろう?」
「ありますよ。大好きなのですから」
「私のことがかね?」
「違います。ご作品だと言いました」
なるほど。
頭の回転は悪くない。
率直さがすぎるところには逆に好感が持てる。
うだうだうだうだ長々と物を述べるニンゲンよりはよほどいい。
「わかった。出しなさい」
「えっ、脱げとおっしゃるのですか?」
誰もそんなことは言っていない。
「そのバッグの中身だ。きみが言うとおり、目下、私は暇なのでね」
「おぉ、まさに僥倖です」
少女は難しい言葉をいたずらに用いると、白いトートバッグから「中身」を取り出した。透明のビニール袋に入れていたらしい、一センチ半ほどの厚さがある原稿用紙の束だ。右上をダブルクリップで留めてある。
「いつまでに読んでくださいますか?」少女はわくわく顔である。「ねぇ、いつまでですか? いつまでですか、いつまでですか?」
明日、また来なさい。
私がそう寄越してやると、少女はばんざいしながら飛び跳ねた。
早く明日になあれ!
そんなふうに言いながら、あっという間に駆けていった。
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回転椅子ではなくデスクに腰掛け、左手には原稿、右手にはウイスキー。誰に断るでもなく書斎にまで入ってくるあたりの不躾さと度胸の良さには舌を巻きたくもなる。
回転椅子に座ったのは少女である。「いい革を使ったいい椅子ですね。デスクも木目がイカしてます」と褒めちぎる。「どっちもかなり古臭いですけれど」と、一言多い。
「読んでくださいましたか?」
「ああ、読ませてもらったよ」
「いかがでしたか?」
私は「こんなものだろう」と述べた。まるで若いワインを口にした折のテキトーな感想のようだなと思う。どんな顔をするのかと見ると、少女はがっくりと肩を落とした。「渋味を出したかったのですけれど、難しいのですねぇ」などとしょんぼりする。本音としては、「うまく書けている」と称賛を送ったつもりなのだが――。
「わたしもタイプライターを使えば、作品もそれっぽくなるのでしょうか?」
そんなわけがない。
「ネットが世に張り巡らされているというのに、どうしてまだこんな骨董品を用いられるのですか?」
私はすっかり薄くなった白髪頭をつるりと撫でた。
「妻の形見でね」
少女は申し訳なさそうに目を伏せた。
「また何か、書き上げることができたら来なさい」
一転、少女は目を輝かせる。
「一週間、いえ、三日だけください」
「勢いで書くのはいい。しかし、推敲はよくするものだ」
「三日でやります。できます」
私は目を閉じ、小さく二つ頷いて。
「わかった。待っているよ」
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三日経っても、一週間が過ぎても、少女は姿を見せなかった。よほどの力作なのだろうと予想しているうちに一月が経過した。少女のやる気、それに有能さからしてさすがに時間を要しすぎだろうと考え、結果、私は出版社――アロー出版に電話を入れた。かつての担当の男性――もう初老だろう――を呼び出してもらい、手短に用件を伝えた。何か知っていることを祈りつつ。
『ココちゃんですよね?』
「ああ、そうだ。たしか、そんなふうに名乗ってくれた」
『何もご存じないんですか? その、新聞にもネットにも載ったんですが……』
新聞?
ネット?
嫌な予感がざわと雑音を伴って頭をよぎった。
『ココちゃん、亡くなってしまったんです。信号無視の車に撥ねられて……』
私の目の前は真っ暗になった、間違いなく、間違いなく――。
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タクシーを呼んで、目当てである郊外の墓地までは三十分程度を費やした。慎ましやかな墓石。明らかに新しく建てられたものだ。少女の名と生きた時間の長さが刻まれていて――やはり高校生だったようだ。
墓を見るのは久しぶりだなと思いつつ、膝を折ってしゃがみ、食パンみたいなかたちをした墓石の頭を右手で撫でた。そうすることに意味はない。ただ、「こんなものだろう」だなんていう無愛想な評価はいささか失礼だったかもしれないと反省はした。こんなふうに頭を撫でてやりながら、「よくできました」と微笑んでみせてやれば良かったのかもしれない――きっとそうだ。
「ひょっとして、ミスター・マッキーソン……?」
女性の声だった。
おずおずと後頭部にぶつけられた言葉だった。
立ち上がり、私は後ろを向いた。かの少女によく似た顔立ちの女性が立っていた。本人ではないのかとにわかに疑う。だが、違う。あれだけ顕著だったそばかすがないことから、そう判断した。
「ええ、そうです。マッキーソンです」
「よかった」女性はホッとしたような表情を浮かべた。「リンダといいます。ココの姉です」
なんと言っていいものかわからず――そんな感じだから、あいまいに「このたびは……」くらいしか吐けなかった。とことん情けないことだと肩を落としたくもなる。
「ほんとうにおじいさんなんですね」ますます目を細める女性――リンダ。「だけど、とってもハンサムなおじいさん。ココが言っていたとおりのヒト」
私は無精髭の自分を、ドレスコードを忘れた自分を心の中で恥じた。
何を言ったものか、何と切り出したものかとんとわからず、そんな際に口をついて出てきたのは、「妹さんには才能がありました」などという安直なセリフだった。ある種の逃げ口上――そうとも言えるかもしれない。
「賞を取られたのですね。私が二十歳で受賞したものを、わずか十七歳で」
「アロー出版の方から、そう?」
「ええ。自慢するつもりはないが、そう簡単に得られるものではありません」
「お読みいただけたんですよね?」
「はい。よく書けていた。――しかし」
「拙かったですか? やっぱり」
そうではない、そうではないんだ。
――と、私は連続的にかぶりを振り。
「言葉を選ばずに言えば、尊大すぎる点が、よくなかった。タイトルからして、そうだった」
「『失感情症的小説家』?」
「ええ。失感情症、端的に言えば、自らの気持ちを認知しづらい傾向を指す」
「小娘のくせに、そんな小難しいことに目を向けるな、と?」
私は微笑み、「違うかね?」と問いに問いで返した。
リンダは「違いません」と答え、笑った。
「ただ、テーマ自体は悪くない。それを病気と呼ぶかは怪しいところだと考えるが」
「なぜ、そう思われるんですか?」
「ニンゲン、誰にだって、自分の感情がわからなくなる瞬間くらい、ある」
ああ、そうだ。
だから今、私は涙を流している。
自分の内面がよくわからないまま、泣いている。
悲しい、とは違う。
悔しい、でもない。
もちろんすがすがしくもない。
それでも、物理的な現象として、今日の空は抜けるように青くて――。
家に帰ったら、一つ、書いてみよう。
久しぶりに、タイプライターを叩いてみよう。
骨太の長編でなくていい、爽やかで朗らかな短編をしたためたい。
主人公はもちろん、愚かな老作家に憧憬の念を抱いた元気いっぱいの女の子だ。