化学基礎のおさらいをするらしい
森の中、ヒビノは足元の地面をじっと見つめていた。
「うーん、異世界って言葉はよく聞くけど、本当に来てしまうとは……」
地球ではないことは明らかだ。この場所には見たこともない植物が生え、不思議な生き物の鳴き声が時折耳に届く。木々の隙間から見える空には二つの月が浮かんでおり、物理的に地球とは異なる環境であることを無言で物語っていた。
「……とにかく、ここで生き残るには、まず“観察”と“実験”だな」
彼の職業は「化学教師」。それが生き残る鍵になるのではないか、とぼんやり考えるヒビノ。あまり前向きな性格ではないが、現状を嘆いていても仕方がない。いつもの授業のように、地道に取り組むしかないのだ。
まず、彼が目を止めたのは、足元に生えている鮮やかな青い花だった。
「この花……見たことがないけど、茎から液体が出てるな」
ヒビノは慎重にその液体を指で触れ、まず臭いを嗅いでみる。刺激臭はない。次に、液体を少量だけ葉っぱに垂らしてみる。
「ん……葉が変色してきた?」
液体が葉の表面に染み込むと、茶色く変色する反応が見られた。
「なるほど、これは酸性だな。でも、どの程度の強さかはまだ分からない。調べてみるか」
ヒビノは次に、近くに転がっている白っぽい岩に注目した。指で削ってみると、柔らかく崩れる感触がある。
「この岩……たぶん、炭酸カルシウム(CaCO₃)だな」
彼はその白い粉末を少し取り、先ほどの青い花の液体に混ぜてみる。すると、ジュワジュワと小さな泡が発生した。
「うん、やっぱりそうか。弱酸性の液体が炭酸カルシウムを溶かして、二酸化炭素(CO₂)を発生させたな」
ヒビノはその場でノート代わりの木片に結果を記録するように、頭の中で反応式を整理した。
CaCO₃ + 2H⁺ → Ca²⁺ + H₂O + CO₂↑
この化学反応を確認しながら、ふと思う。
「……って、俺、こんなにスラスラ反応式書けたっけ?」
普段の授業で扱う反応式はもっとシンプルなものが多い。高校化学の範囲で知識としては覚えていたが、ここまで素早く応用できる自分に少し驚きを覚えた。
「……もしかして、“化学教師”スキルってやつの影響か?」
昨夜、手の甲に浮かんだスキルの表示を思い出す。「化学教師」というスキルが、彼の知識や技術を強化しているのかもしれない。
「まぁ、ありがたいことだよな。とりあえず、この酸性の液体、何かに使えそうだな……」
ヒビノは青い花をいくつか摘み、茎から出る液体を葉っぱに包んで保存した。
「これだけじゃまだ道具にはならないけど、きっと役立つ時が来るはず」
次に進むべき道を考えながら、彼は再び森を歩き始めた。
さらに森を進むと、今度は大きな岩場にたどり着いた。岩の表面には黒い光沢のある鉱石が点在している。
「お? これは……硫化鉄(FeS2)かな?」
ヒビノは黒い石を拾い上げ、周囲の地面に叩きつけてみた。すると、石の一部が欠け、金属のような断面が露出する。
「うん、たぶん硫化鉄で間違いない。この手の鉱石なら火花が出るかもしれないな……」
彼は拾った乾いた葉っぱと細かい枝を火口として用意し、石を叩き合わせてみた。最初はうまくいかなかったが、何度か試行錯誤を繰り返すうちに、火花が飛び、葉っぱが燻り始めた。
「よしよし、火がついたぞ……」
葉っぱから火が枝に燃え移り、小さな炎が上がる。ヒビノは木の枝をさらに追加し、焚き火を作った。
「この世界では火を起こせるだけでも生存率が上がるな。ふぅ……これで寒さはしのげそうだ」
焚き火の前に座り込んだヒビノは、小さな達成感を味わいながら手を温めた。
《システムメッセージ:スキル経験値+1》
焚き火をじっと見つめながら、ヒビノはふと手の甲に表示される文字を確認する。
「……スキル経験値1だけか。まぁ、こんなもんだよな」
地道な積み重ねが重要だ、と改めて感じたヒビノは、頭の中で次に試すべき実験を考え始めた。
「道具がなくても、ここにある素材だけでどこまで化学を応用できるか……まさに挑戦だな」
こうしてヒビノは、異世界の森の中で生き延びるための地道な実験を重ねていくことになる――。