エーテルは危ないらしい
「うーん……塩化ナトリウムをどのタイミングで入れるか、生徒たちが混乱しないようにしないと……」
東海地方でも有数の進学校である岐阜高校の理科準備室。日比野は、翌日の授業のために教科書の記述を確認しながら、実験器具を並べ直していた。
ヒビノは化学教師として約15年のキャリアを持つアラフォーだ。だが、「経験豊富な教師」というよりは、「静かにその場に溶け込んでいる影の薄い男」という印象のほうが強い。控えめで、無欲で、目立とうともしない。そんな性格は生徒にも同僚にも受け入れられており、「あの人、何か話しかけやすいよね」という評価を受けていた。だが、それ以上の関係を築く者はほとんどいない。
「まあ、こんな感じでいいかな……」
ヒビノは棚に収納してある冷蔵庫を開け、エーテルの容器を取り出した。揮発性が高く、火気厳禁の化学薬品だ。それを実験用に計量しようとしたとき――。
「ん?」
床にタバコの吸い殻が落ちているのを発見した。誰かが吸って捨てたのだろうか? 岐阜高校は全面禁煙のはずだが……。
「あ、これ危ないな。あとで清掃の人に――」
そのときだった。ヒビノの指が滑り、エーテルの容器が机から転げ落ちる。
「あっ……!」
容器が床に落ちて割れ、透明な液体が飛び散る。そして、床の吸い殻に残っていた火がエーテルの蒸気に引火した。
「――――!」
爆発音が響き渡る。準備室全体が眩しい閃光に包まれ、激しい熱風がヒビノの体を襲った。そして、何かが崩れるような音がした後、彼の意識は闇に沈んだ――。