旦那様! 私は「君を愛することはない」を希望してるんですけど!
「君を愛することはない」に挑戦しました。
「君を愛することはない」
初対面の旦那様——シェリル・カーライン侯爵は、私に向かってそう言い放った。
私はそれにショックを受け……ということは、なかった! ぜんっぜん、なかった! なぜなら私——エンジュ・パルテールは、「君を愛することはない」婚希望令嬢だったから!
よって、もちろん返事は、分かりました——
「……なんて、言うとでも思ったかい?」
うん?
「僕たちの出会いは偶然か……いや、違う。これは定められし運命なんだ。僕はここに誓う。我が命にかけて、君を溺愛すると!」
シェリル様はそう言いながら、謎のポーズを次々に繰り出している。え……何してるんだろう、この人。というか、何言ってるんだろう……。
「さあ、僕たちの愛の物語の始まりさ!」
最後、ウインクと共に、薔薇の花を差し出された瞬間、私は確信した。あー、これ私、かなりあれな人を引き当てちゃったんだな、と。
*
初代「君を愛することはない」の誕生から、はや二十数年。「君を愛することはない」は大流行し、貴族たちの間では、いつの間にかそれが通常運転になっていた。
政略結婚における、煩わしい気遣い、さらには貞操義務すらも免れられる、魔法の言葉。今日、殿方たちはこぞって「君を愛することはない」の恩恵に預かるようになり、ロマンチックな結婚生活を夢見た令嬢たちを泣かせている。
しかし私、子爵令嬢エンジュ・パルテールは、「君を愛することはない」肯定派だった。なんだろう、もはや清々しくないか? 表面的に取り繕われながら、裏で嫌われるよりは、宣言された方が余程親切な気がする。
だから、私は、「君を愛することはない」婚を希望していた。何も与えられない代わり、何も与えなくても許される。なんて気楽なんだろう。
それに私、めちゃくちゃ「君を愛することはない」ライフに向いてると思うんだよな。うん、これは絶対。その点については自信がある。
さて、そんなこんなで十六歳になった私に、縁談がやってきた。お相手は、シェリル・カーライン侯爵。驚いた。カーライン家は名家だし、シェリル様も有能な人物と評価が高い。対する私は、ある一点を除けば、ごく平凡な子爵家の娘。これは完全なるお飾り妻パターンなのでは? 「君を愛することはない」である可能性高し。私のセンサーがそう反応する。
だからこそ、
「喜んでお受けいたします」
と、私は二つ返事で彼に嫁ぐことにした。
さて、侯爵邸に到着すると、シェリル様は当たり前のように不在だった。使用人たちも、それに対して何か取り繕う様子もなし。うーん、初っ端からこの扱いか。これは完璧に「君を愛することはない」を引き当てたな、私。
——と、満足していると、とりあえず部屋に案内され、荷物を整理。夜になると、侍女たちに身支度をされ、寝室に通される。流石に初夜にはやってくるらしい。
私が適当に立って待つことしばらく、ついに旦那様がやってきた。ばたんと開いた扉……じゃない、窓だ。え……窓……? なんで窓からきたの? しかも、なぞに花びらが入り込んでくる。これは、薔薇……? え……? わけ分からない……。
そんな中、シェリル様がつかつかと歩み寄ってくる。おお、かなりの美人。薔薇の花びらが降ってるし、なんか、凄い光景になってる。
だけど、
「君を愛することはない」
ですよねー! 良かったー! 安心したー! そう思っていたのに……。
「……なんて、言うとでも思ったかい?」
なんということだろう。「君を愛することはない」婚のはずが、何の運命のいたずらか、私は、溺愛を公言する変人の元へ嫁いでしまったのだ。
*
そんな対面から、私たちの新婚生活が始まった。シェリル様は多忙なようで、ほとんど出払っている。結果、私は平穏なぼっち生活を送るはずだったのだが——
「やあ、我が麗しの妻君!」
私がテラスに一人座っていると、シェリル様が空から降ってきた。本当に、空から降ってきた。ついでに、お馴染みの花びらも舞い落ちてきた。
「エンジュ殿、これはせめてものプレゼントさ。はは、君の美しさの前で、花たちも恥じらっているよ。これはまいったな」
輝くようなシェリルスマイルを浮かべると、シェリル様は私に花束を押し付ける。
「あ……どうもありがとうございます」
問題はこれ。忙しいはずのシェリル様が、なぜか頻繫にやってくるということ。そして、毎回登場が凝っている。白馬に乗って疾走してきたり、庭園の泉から現れたり、いや、これは溺愛なのか? ただのどっきりだろ。そして、なぜ登場時に花びらをまき散らす?
いや、この人が溺愛を何か履き違えているのは、もういい。だとして問題は、ここまでするか……? ってこと。なんか、怖い。この人、怖い。
しかし、怖いと騒がれているのは、驚くことに、シェリル様ではなかった。
いつものように私が一人で過ごしていると。
「やあ、エンジュ殿! 何をしていたのかな?」
と、シェリル様が登場した。
「自分の毛穴を数えていました」
と、私は答える。
そう。私は暇つぶしの達人だった。暇つぶしと言っても、令嬢らしい趣味に興じるわけではない。お金も道具もかからない、とにかく低燃費で、面倒でないことをして時間をつぶす。まあ、私の取り柄は、昔から、こうやって迷惑をかけないことくらいしかないからな。「君を愛することはない」において、このスキルはいかせると思ったんだけど。
毛穴数えは五日目に入っていた。固まった表情筋で、永遠に自分の腕を眺めているのは、奇妙な光景なんだろう。やばい女、怖い。と使用人らに言われるのに、時間はかからなかった。まあ、つまらないし、気持ち悪いということは、自覚してるけど。
さて、そんな私に、シェリル様はどう返すんだろう。侯爵夫人のやっていることが毛穴数えじゃ、流石に家名を汚しているのかも。怒られるかな。
そう思ってシェリル様を見ると、
「はは、それだったら、僕の毛穴も数えてみてほしいな。君に出会えた喜びで、体温が上がって毛穴が開いているから、きっと数えやすいはずさ」
シェリル様は爽やかにそう言った。
また、別の日。
「蜘蛛に蠅が捕食されてるのを見ています」
「ああ、なんと哀れなんだろう。だが、僕もまた、君の魅力に捕らえられてしまった哀れな羽虫なのかもしれない。しかし、僕は死など恐れないさ。君にこの身を……」
以下、ポエムが続く。
また、別の日。
「ほつれた糸をぐちゃぐちゃに集めています」
「僕たちの運命の糸も、こうして交わったというわけだ。決してほどけない強い結びつき……これは、未来への暗示なんだろう。ああ、運命の女神よ。願わくば……」
以下、ポエムが続く。
うーん、なぜ? なぜここまで私にかまってくる? 楽しいか? こんな私にかまって楽しいのか? B.K.(Before Kimiwoaisurukotohanai)時代の、体裁を重んじるタイプの夫なのか? いや、それにしたってサービスが過ぎる。はっきり言って、怪しい。怪しすぎる。
なによりこの状況、私はものすごーく居心地が悪い。どうにかしなければ。
ということで、ここは特攻あるのみ。私はタイミングを見計らい、シェリル様の部屋に突撃した。
「シェリル様、溺愛をやめていただけないでしょうか」
「……どうしてだい、エンジュ殿?」
「私はつまらない女です。一緒にいらっしゃっても、きっと退屈でしょう。ですから、これからは私にかまうことなく、『君を愛することはない』婚に切り替えてくださいませ」
「僕と一緒にいるのは嫌いかい?」
「それは……」
シェリル様はかなりあれだ。はっきり言って、やばい部類の人だ。溺愛行動はわけが分からないし、頭がおかしい。でも——
「……嫌いじゃありません」
そう言うと、シェリル様はふっと笑った。
「別に、何かを返そうなんて思わなくてもいいんだよ。せっかく夫婦という縁を得たんだ。せっかくだったら、愛してみたいじゃないか。それに、君は素敵な人だからね。僕は君といて、そして溺愛していて楽しいよ。君はどうだい?」
「楽しい……ですけど」
私は食い下がる。
「何も与えていない私が、一方的に与えてもらうなど、許されるはずがありません」
「僕のことを気遣ってくれているのかい、エンジュ殿?」
「それは……」
「どうやら、君の心の中を、少しは僕が占めているらしい。それだけで僕は十分幸福だよ。それに、夫婦生活はまだまだ長い。時間をかけて、いつか、互いに愛し合う夫婦になれたら万々歳さ。それまでは、勝手に溺愛させてもらうよ」
シェリル様は例のウインクをしてくる。そして、サイドテーブルの果実水をついで、私に差し出した。
「ふっ、君の瞳に乾杯」
相変わらずのくさい台詞、決め顔、決めポーズ。それなのに——多分、私はおかしくなってしまったんだろう。そんなシェリル様が、なんだかとても素敵な気がしてきた。
*
結婚から一月。私たちは夜会に出席することになった。夫婦揃ってでは、初めての公の場になる。
さて、夜会について少し。「君を愛することはない」が流行った結果、大抵の貴族は仮面夫婦、という認識が当たり前になった。よって、既婚者だろうがアタックは当然。まあ、簡単に言えば、夜会は非常にただれた場所に変貌しているのだ。
会場に現れた瞬間、シェリル様はさっそく令嬢方に拉致された。お飾り妻と思われる私は、完全に置き去りにされる。
令嬢方に囲まれて、シェリル様が微笑んでる。あ、あの笑顔、他の人にも向けるんだ。というか、同じような台詞を言ってるんだろうか。そう思うと、なぜか胸がずきんと……なんて、あー、私、馬鹿だ。
「あら、シェリル様の奥様ですわよね?」
その時、見知らぬ令嬢が寄ってきた。
「噂では、初夜をすっぽかされた上、現在でも寝室が別だとか。おかわいそうに」
彼女はくすっと笑う。
下世話な使用人の誰かが漏らしたのだろう。それは、心の中で引っかかっていたことだった。溺愛すると言っておきながら、私たちはずっと別の寝室で寝ている。夫婦らしいことは、もちろんない。
「……いえ、今はそれが当たり前でしたわね。すみません、パルテール嬢は、誰よりもそれをご存知ですのに」
それだけ言うと、彼女はシェリル様のところに向かっていく。
本当は気付いていた。シェリル様は、本当は私のことを愛してはいない。全ては表面的なものなのだ。
こんなことなら、やっぱり「君を愛することはない」の方が良かったのに。
私の持つ、唯一の特異性。それは、私の両親こそが、初代「君を愛することはない」であるということだった。そして、「愛することはない」は娘の私にも適用されていた。パルテール家は、ただそれぞれが役割を果たすだけの家族だった。
迷惑をかけないよう、ただ日々の時間をつぶす。与えられないし、与えない。それでいいと、ずっと思っていた。それなのに。シェリル様と出会って、私はほだされてしまったらしい。でも、それももう終わりか。かりそめの夢から、そろそろ覚めなければ。
「おや、カーライン侯爵夫人」
今度は男性が私に近づいてくる。
「夫殿に放っておかれ、おかわいそうに。きっと寂しくいらっしゃるのでしょう。どうでしょう。一緒に抜け出しませんか? 私が慰めて差し上げますよ」
「君を愛することはない」では、妻もまた、夫を愛することを免除され、貞操義務もない。だけど——
「何を言っておられるのです?」
表面だけだったとして、シェリル様に溺愛される生活が、私はとても楽しかった。だから、せめてそれには報いたい。
「旦那様にはとても良くしていただいて、私は十分満たされております。それと、私の旦那様は、あなたなどより、余程上品で気の利いた台詞をかけてくださいますよ。まったく、ロマンの欠片もない方ですね。はっきり言って、お断りです」
「な……! 言わせておけば……」
その時、
「私の妻に何か?」
シェリル様が私の後ろに立っていた。めちゃくちゃ笑顔だけど、なんだろう、めちゃくちゃ殺気を放っている気が……。
「い、いえ……何でもありません!」
男はびびって逃去っていった。
「シェリル様、どうしていらっしゃったのです?」
「何を言ってるんだい? 君は僕の妻じゃないか」
しかし、
「シェリル様! どうして行ってしまわれたのです⁉ それに……どうして、そんな形式上の妻のところに⁉」
と、先ほどの令嬢が追いかけてきた。
「すみませんが、私は妻に夢中でしてね。彼女が魅力的過ぎて心配なので、彼女の側についていなければ」
「で、でも……」
「端的に言えば、あなたに付き合っている暇はないということです。それでは失礼します」
私はシェリル様に手を引かれ、バルコニーに出た。
「エンジュ殿、君のその憂いを、僕に晴らすことはできないかい?」
まだ思い悩んだ表情をしている私に、シェリル様が尋ねてくる。
「……質問があります」
「なんだい?」
「私を愛そうとなさるのなら、なぜ寝所を共にしてくださらないのです⁉ 溺愛宣言から寝室を退室など、矛盾しているのではありませんか⁉ 私は本当にあなたの妻なのですか⁉」
その言葉に、シェリル様の表情が奇妙になっていく。ほら、やっぱり何かある! 何かある人の顔だ!
「それは……その……」
シェリル様があたふたするうち、何かが服の中から落ちた。これは……本?
「『旦那様はベッドで甘く愛を囁く~過保護な溺愛に身も心もとかされて~』……って、なんですか、これ」
瞬間、シェリル様ががたがた震え始める。
「さささささ、参考書のようなものだよ……」
おそらくハンカチを取り出そうと、シェリル様が服の中を探ると、さらに数冊がどさどさっと落ちてくる。いや、その服の中のどこに、こんなのをしまうスペースが? という突っ込みは、この際置いておく。
「溺愛、溺愛、溺愛……。見事に全部溺愛物ですね」
「正しい溺愛をするために、参考となる文献が必要だと思ってね。実に示唆に富む書物たちだったよ」
「へえ……溺愛を……これらを読んで勉強された、と」
なるほど。謎が解けた。女性向けロマンス絵物語を読みまくった結果、この人は浮世離れしちゃったのか。
「それなら……『旦那様はベッドで』も読んだんでしょう? 実践してみたらいかがですか?」
そう言うと、シェリル様は目を白黒させた。
「この本は、その……刺激が強すぎてギブアップで……。いや、僕はこれを乗り越え、そのような場面においても、完璧な溺愛を披露してみせる。だから、エンジュ殿はそれまで待っていてくれ! いつか、僕がこの本を読了するその日まで!」
焦ってる。いつものシェリル様と違って、なんだろう、かわいい。
「……悪かったよ。完璧な溺愛系ヒーローたる僕が、実は本の受け売りだっただなんて、君はさぞショックだったろう」
「いいえ、そんなことありません」
そもそも、あなたを完璧な溺愛系ヒーローと思ったことはありませんし——なんてことは、今は言わないでおこう。
「私のために、シェリル様が一生懸命になってくださっている。私はそれが、たまらなく嬉しいんです」
私は落ちた本を拾い上げ、そしてページをめくり始める。
「いや……どうして君が読み始めるんだ……?」
「どうしてでしょう……。私もシェリル様を溺愛したいと、ふとそんな気持ちになったんです。そのためには、シェリル様のように一生懸命勉強しなければなりませんからね」
「やっ、やめて! そんなにじっくり読まないで! なんか恥ずかしい!」
恥ずかしい? おや、ちょうどこのシチュエーションに使えそうな台詞が……。
「恥ずかしがることなんてないんだよ? 君の全部、僕に見せてごらん? ほら……とってもかわいい」
シェリルスマイルを浮かべた後、私は参考書の通り、壁ドン、と連続で溺愛コンボを決めてみた。
「うあああん!」
シェリル様は変な声を出して、耳まで真っ赤になる。お、これは本文中のヒロインの反応と同じ。どうやら溺愛は成功したらしい。
「シェリル様に溺愛され、私は何をお返しできるのか、ずっと悩んでいました。しかし、答えは簡単でした。溺愛されたら、溺愛でお返しすればいいんですね」
「い、いや……! 溺愛は僕がやるんじゃないか⁉ 君は……」
「ふっ、おしゃべりな唇だな……。ふさぐぜ……?」
私は参考書通り、シェリル様の唇に人差し指をあてる。
「ぴぎゃあああ!」
おお、溺愛クリティカルヒット。シェリル様のキャラ崩壊がとどまることを知らない。
「そ……それは僕の台詞だ! 今は遅れをとったけど、今後の夫婦生活においては、絶対に僕が君を溺愛してみせよう!」
「それなら、私はもっと溺愛します!」
「それなら、僕はもっともっと溺愛しよう!」
ここから始まった「お互いもっと溺愛します」が、やがて「君を愛することはない」を上回る流行を作ることを、この時の私たちはまだ知らない。
まだまだ勉強中ですので、ぜひアドバイスをお寄せくださると助かります。