第一話 婚約破棄
グランデ子爵家は三年前に叙爵された平民上がりの新興貴族だ。
お父さんは優秀な魔術師としての腕を見込まれて爵位を授けられ、ルドヴィア王国の南にあるサルマン地方を任せられた。だけど、子爵家になったからといって贅沢な食事が出来るかと言えばそうじゃない。むしろ逆で、領地の運営のためにあちこち奔走したり、魔法陣を組んで魔物除けを作ったり、領民から呼び出されたり……もうとにかく大変で、ちゃんとご飯を食べる暇もなかった。
その癖、領地としての旨味は少ないと来ている。
子爵家に割り当てられる予算も少なく、派閥のトップにいる伯爵家からお茶会や舞踏会への参加要請が来たり、そのための服を見繕ったり……お貴族様というのは、とにかくお金がかかるんだなと思った。パンにチーズがつく生活が出来るのは一生ないかもしれない。
そんな家だから、婚約が決まったと言われた時は驚いた。
その家が王国でも名門と名高いヴィルヘルム侯爵家で、
貴族院で優秀な成績を修めた、金髪イケメン令息と聞いた時はもっと驚いた。
エドワード・ヴィルヘルム様は背が高くてほっそりしている。
エメラルドの瞳を甘く細めると、女性たちがきゃーきゃー言いそうな見た目だ。
質のいい貴族服がとにかく似合っていて、平民の私なんかが釣り合う相手じゃない。
そんな人に、初めて会った日に言われた。
『君の描く魔法陣に惚れたんだ。僕と婚約してくれるかい?』
『は、はひ。よろしくお願いします……!』
顔合わせを終えて、二人で中庭を散歩している時だ。
両親が魔術師の私は幼い頃からずっと魔法陣に触れていたから、ちょっとでも認められたような気がしてすごく嬉しくて、こんな私でもお役に立てるのかなって思えた。
『あ、あのエドワード様、五芒星式魔法陣のαとβ地点における双方間の魔力循環法についてなんですけど』
『何を言っているんだい、ライラ。α地点からβ地点に流れるのが普通だろ?』
『そこを変えるんです。円環増幅法を使って、双方間から循環し、共鳴するようにすればどうなのかと』
『……いい考えだね。とりあえず論文にまとめてくれる?』
『はい!』
エドワード様は私の魔法構築理論を嫌がることなく聞いてくれた。
一緒の趣味で盛り上がれるお友達というのに憧れていたから嬉しかった。
翌日、ちゃんと読んでくれて分からないところを聞いてくれた時は飛び上がりそうになった。
婚約してからの一年間。
私みたいな凡庸で平民の女の子にもったいないくらいの幸せだった。
愚かにもそう思っていたんだ。
──そんなこと、あるはずがないのに。
◆◇◆◇
「新型魔法陣の構築理論を提唱したヴィルヘルム卿に拍手を!」
万雷の歓声が、扇型の会場に響きわたっていた。
舞台の上には賞賛を一心に浴びるエドワード様がいる。
にこやかに手を振りながら、エドワード様は私のいる舞台袖に降りて来た。
彼の横には赤紫色の髪をした綺麗な女性がいて、二人は恋人のように腕を組んでいる。
「あ、あの……」
薄暗い中、私は勇気を出して二人の前に立った。
怪訝そうな女の人とは裏腹に、エドワード様は鬱陶しそうな顔だ。
「なんだ、ライラ」
「あ、あの。それ、私の」
「何のことだ?」
「だから、魔法陣の……」
今しがたエドワード様が発表した魔法陣構築理論は私が三年かけて完成させたもの。
私の名前で発表してくれるはずだったのに、実際に発表されたのはエドワード様の名前だ。
こればかりは譲れないと思い抗議をあげると、エドワード様は鼻を鳴らして言った。
「馬鹿な。これは俺とナディアが共同で研究した理論だ。お前みたいな子爵令嬢が開発できるはずないだろ?」
「え」
「ヴィルヘルム卿。これは誰なの?」
エドワード様の隣に立つ女の人が言った。
ナディアと呼ばれている人はエドワード様と腕を組んでいる。
……誰だろう。
すごく綺麗な人だし、立ち姿も凛としてる。お貴族様かな……。
「あぁ、ナディア。気にすることはない。こいつはただのストーカーだ」
「……っ、そ、そんなんじゃ!」
「僕に惚れたって言って付き纏われているんだ。もういい加減勘弁してほしいよ。おまけに僕が作った魔法陣も自分の手柄だっていうしさ……僕にはナディアという婚約者がいるのに」
(こ、婚約者……?)
婚約者ってなに? 婚約者は私でしょ?
戸惑う私をよそに、ナディアと呼ばれた女性は警戒心をあらわにした。
「ただの不審者じゃない。警備の者に突き出しましょう」
「そうだね。君に万が一があってはいけない」
「ちょ、待ってください。せめて、あの、お母さんの研究だけは」
「だから何のことか分からないな」
「ぁ、ぅ」
涙目になる私にナディアさんが見下したように言った。
「あなたね、被害妄想も大概にしなさいよ。あなたみたいなみすぼらしい平民に、芸術の極致とでもいうべきエドワード様の魔法陣構築式を開発できるわけないでしょう? あれほど複雑で精緻な術式、何年も血のにじむような努力を重ねなければ不可能だもの。身の程を弁えなさい」
思えば、これが初めてのことじゃなかった。
私の研究はいつだってエドワード様が見て学会に挙げられていて、その都度「君の名前じゃ通らないから僕の共同名義で出しておくね」と言われてきたのだ。私だって子爵令嬢だから、身分くらい弁えてる。エドワード様に意見も貰ったし、共同で名前をあげてくれるなら別にいいと思っていた。
だけど……
『ごめん。父上に君の名前を入れたら学会に通らないと言われてね』
『大丈夫。俺だけは君のことを分かっているから』
『研究が世のため人のためになるなら、名声なんて二の次だろう?』
私はエドワード様の言葉に納得していた。
別に地位とか名誉とかが欲しかったわけじゃないし、褒められたかったわけじゃない。
大好きな研究がたまたまお金になるならそれでいいや……みたいな感じだった。
「で、でも」
お母さんの研究は……諦められない。
この理論を構築するのに七年かかった。
お母さんが死んでから十年。どんどん記憶が薄れていってる。
この魔法陣だけがお母さんが存在したことを証明する唯一の絆だった。
「大人しくしろ!」
「きゃ!?」
警備の人たちが走ってきて私を後ろから羽交い絞めにした。
すごく強い力で掴まれて、身体から抵抗する力が見る間に奪われていく。
仲睦まじげにエドワード様と腕を組むナディア様が、うっとりとその腕に顔を預けていた。
『さらばだ、ライラ』
エドワード様が空中に指を動かす。
私と彼にしか見えない魔法文字が空中に浮かんだ。
『俺の名が知れ渡った以上、お前はもう用済みだ』
『婚約破棄の書類は後で送る』
『このことを口外したら……父親がどうなるか分かるな?』
サァ……と血の気が引いた。
男手一つで私を育ててくれたお父さんに迷惑がかかると思うと……
「もう来るなよ。次に来たら牢屋にぶち込むからな」
「はい……申し訳ありませんでした」
私は頷くしかなかった。
もちろん、私は不審者じゃなくて招待状を持った参加者だ。
警備兵の人たちに必死に説明して招待状を見て、グランデ家の子爵令嬢だと説明して、お貴族様の厄介ごとに関わりたくない兵士たちは放り出すように私を外へ投げ出した。
真夜中だった。
街灯がチカチカと点滅して虫が飛び回っている。
薄暗い貴族街の大通りを、私は一人で歩き始める。
「ごめん……」
自然と涙がこぼれてしまった。
ぽた、ぽたと地面に染みが出来ていく。
「お母さん、ごめん。ごめんね……」