第十七話 王子の怒り
ケーキを食べた後、ライラは自室のベッドに横になった。
小腹が満たされて眠くなったのだろう。すぐに寝息が聞こえて来た。
リュカはベッドの横で寝顔を眺める。
ギリ、と歯噛みした。無垢な寝顔の瞼は赤く腫れあがっている。
「……泣かせてしまった」
「そうですね。最低です」
「あんな顔をするとは思わなかったんだ」
「強引すぎましたね。最低です」
「うるさいな……分かってるよ。そんなことは」
くしゃりと髪を掴む。
「……それでも、僕を見て欲しかったんだ」
嫌われてしまっただろうか、と思う。
ライラは表面上許してくれたけど、本心はどうなのか分からない。
もしそうならと考えると頭がどうにかなってしまいそうだった。
「はぁ──……僕ってこんな人間だったんだね」
何事も卒なくこなす一方、人や物に執着しない人間。
それがリュカの自己評価であり、今後もそれは変わらないものと思っていた。
王族として育てられたゆえの、ある種の達観さが彼にはある。
ライラと出会ってからというもの、リュカは新しい自分を発見するばかりだ。
彼女の顔を見るだけで心臓が跳ねるし、近くに居られるだけで嬉しくなる。
他の男と話していたら引き離したくなるし、素性を調べて危険な者ではないのか探ってしまう。
醜く、浅ましい欲望の塊だ。
そこらの男が花の蜜に寄せられる蝶のように吸い寄せられていったことと同じだ。
それでも、もはやリュカにとってライラはかけがえのない存在となっていた。
笑顔が好きだ。
好物を食べた時にちょっと緩む口元や、甘いものを食べた時の幸せそうな顔。
好きなものを生き生きと語る彼女の笑顔はどんな宝石よりも輝いている。
優しいところが好きだ。
仕事を嫌だ嫌だと言いながら領民のために働いているところがいい。
そんな彼女だからこそ仕事を楽にしてあげたくし、手伝ってやりたくなる。
好きなところをあげれば無限にあって、それはどれも彼女の能力に起因しない。
リュカはライラの中身を好きになったのだ。
無垢で純粋で優しいところを心から好ましいと感じる。
だからこそ──
「ルネ」
後悔してばかりは居られない。
リュカは《氷焔の微笑》の二つ名にたがわぬ冷徹さで従者を見据える。
「もう調べてあるんだろうな?」
「もちろんです」
ライラを泣かせるものは誰であろうと許さない。
先ほど見せたライラの異常なまでの怯え。
それが彼女の婚約破棄に起因しているものだとしたら。
「ヴィルヘルム伯爵家の使用人から複数の証言を得られたのですが──」
ルネは語った。
ヴィルヘルム伯爵家がライラに対して行った非情な仕打ちを。
父親を人質にとって娘を従わせる、傲慢かつ冷酷なる振る舞いの数々を。
「──……ふぅ」
すべてを聞いたリュカは深呼吸を一つ挟んだ。
貧乏ゆすりのようにコツコツと指で机を叩き、見る者が震えるような目で一言。
「潰すか。伯爵家」
ルネは分かっていたように息をついた。
「やはりそうなりますよね」
「当然だよね。ライラの研究を横取りして自分の名前で論文を発表するなんて──しかも、牢屋に閉じ込めた挙句、腐ったパンと水しか与えず、倒れるまで魔法陣を描かせたんだろう? 例え伯爵当主の意思ではなかったとしても、平民に嫉妬した愚かな侍女の振る舞いであっても、責任は上が取るべきだ」
それとも、と。リュカは続けて、
「君はこのままヴィルヘルム一族をのさばらせるつもりかい?」
「まさか」
無表情のルネは目が据わっていた。
「ライラ様はもはや私のご主人様。主を愚弄する輩は誰であろうと許しません」
「余罪がすごいね。誘拐、拉致、監禁、窃盗、殺人未遂、さてどれくらい罪が出て来るか」
ライラに限っただけの話ではない。
ヴィルヘルム伯爵家は身分が低く才能ある若者を見出し、使い潰していた。
『君の名前で発表しても相手にされないだろうから、代わりに発表してあげる』
『貴族の伝手はないだろう? 私たちが力になってあげよう』
それが彼らの常套手段であり、十八番だった。
都合のいいことを耳元で囁いておいて、その実、搾取するだけして捨てる。
対抗派閥や反抗的な人間に手を回して秘密裏に潰していく。
ヴィルヘルム伯爵家はそうやって成り上がって来た。
これまで誰も気付いて来れなかったのは、おそらく魔法学界隈の閉鎖的な環境故だろう。
特に研究者や学者と言った者達は他人に門戸を開かないから──。
「まずは伯爵令息だな──エドワードだっけ?」
「はい。秀才ですが天才ではなく。努力家だったのも十代の一時だけでした」
「ライラの才能に目が眩んで堕ちたか。同情の余地もない」
どうやって潰そうか、とリュカは思う。
無理やり難癖をつけることは簡単だが、単に伯爵家を潰すだけでは周りに軋轢が生じるし、逆にこちらが悪者扱いされる恐れすらかもしれない。それほどに彼らは狡猾だ。
「ライラがどうしたいかにもよるけれど」
おのれの研究を取り戻し、魔法研究者として名をあげたいのか。
あるいは研究なんてどうでもいいから静かに暮らしたいのか。
どちらにせよ、彼女の態度を見るに貴族と関わりたくなさそうなのは確かだ。
これからはライラに近付く者は一層警戒して、怪しいものは素性を調べ上げねば。
「まずは彼の周辺から崩していくか。幸い、伯爵は国外へ遠征中だ。仕掛けるのは今が好機だ」
「では、私はアリステリス家と連係を」
「うん、頼むよ──そうだ、ルネ」
早速動こうとしたルネをリュカは呼び止めた。
「僕が動いていることはライラには決して悟られないようにしてくれない?」
「……いいので? 恩を着せて好意を持ってもらう絶好のチャンスですが」
「そんなことしないさ」
リュカは寝ているライラの頬を優しく撫でた。
珠のような肌。赤子に触れるような仕草は慈しみに溢れている。
「僕はね、ライラと対等で居たいんだ。恩を着せたりしたら台無しじゃないか。ライラにはありのままの僕を見て、ただ好きになって欲しい……これは僕の我がままかな? ルネ」
「……いえ」
ルネは口元を緩めた。
「そういうところは男性として魅力に思います。殿下」
「君に魅力に思われてもなぁ。ライラに好かれてないと意味ないし」
「でしたら、一つアドバイスを」
ルネは指を一本立てる。
「押してダメなら引いて押せ。これは恋愛心理学におけるセオリーの一つです」
「……ライラの場合、引いたらそのまま「さよなら」ってなっちゃわない?」
「ですから、外堀を埋めるのです。戦術指南書の一つにこうあります」
艶然と、護衛侍女は微笑む。
「『将を射んとする者はまず馬を射よ』、と」