第十六話 温もりの音
初めてヴィルヘルム侯爵家を訪れたのは三年前のことだった。
当時の私は子爵令嬢になったばかりで、貴族の作法に慣れるのに必死だったことを覚えている。侯爵令息であるエドワードは最初こそ嫌な顔をしていたけど、侯爵当主と何かを話したら急に優しくなって、魔法のお話が出来ることもあって嬉しかった。陰気な私は平民の友達も少なかったから……捨て犬が飼い主に懐くみたいにエドワードについていったんだと思う。
時々、侯爵本人にも呼び出された。
礼儀作法やマナーのことを言われるのかと思って怖かったけど、エドワードとの仲を聞かれたり、魔法に関することを聞かれたり、最初は世間話みたいな感じだった。
でも、だんだん様子が違っていった。
試しに魔法陣を描いてくれと言われた。その通りにして侯爵は満足した。
それが三回くらい繰り返されたあと、高塔にある鉄格子の牢屋に閉じ込められた。
『私が出張する間、君はここで魔法陣を描け。いいな?』
『で、でもお腹が空いたら……』
『食事なら侍女に出させる。問題ない』
そう言われて、反抗することを許されなかった。
お父さんを呼んで、と言った。父は来ないと言われた。
これは後から聞いた話だけど、お父さんは侯爵に国境の警備隊に飛ばされていて、私に会えない状況だった。寄る辺もない私は従うしかなかった。幸い、食事は出来るしトイレは問題なく出来る。お部屋も綺麗だし、たくさん読書が出来るから問題ない……と思っていたんだけど。
侯爵が雇った侍女が問題だった。
侍女は平民の私が良い思いをしていることを疎んで食事を絞った。
暖かいバゲッドはカビたパンに変わり、かぼちゃスープは水と野菜くずだけになった。
お腹が空いても侍女は嗤うだけで何もしてくれない。
嫌だ。苦しい。苦しい。
ここから出して。お腹空いたの。お父さんに会いたいの。
泣きわめいても誰も来てくれなくて、鉄格子をかじるほどお腹が空いたのを覚えている。
地面を這う虫を見つけて口の中に入れたけどお腹は膨れなかった。
窓を開けて雨水を溜め込み、いっぱい飲んでみたけどお腹は膨れなかった。
塔の上はとても高くて、カーテンを繋いでも降りられる高さじゃなかったから、窓を眺めてお父さんが迎えに来てくれるのを待つ日々だった。
ある日、窓からエドワード様が見えた。
もちろん、私は助けを求めた。生まれて一番大声を出したし。
『エドワード様! エドワード様! こっちです! 助けてください!』
『……』
エドワード様は確かに聞こえて来たんだと思う。
ぴたりと立ち止まって、だけど、振り向くことすらしなかった。
『エドワード様……? 助けて、助けて! ここから出して!』
『……』
どれだけ叫んでも彼は振り向いてくれなかった。
どれだけ泣いても誰も助けに来てくれなかった。
そのうち侍女がやって来て、私を叩いた。
描きなさい、泣いても無駄、お前にはそれだけしか価値がない。
お前みたいな女にあの人が惚れるわけない。ばぁか。ざまーみろ。
お腹が空いて苦しかった。誰にもバレないようにお腹を叩かれた。叩かれても吐き出せるものがなかったから、ただ蹲ることしか出来なくて、そのうち立っているのも辛くなって、机の上で突っ伏していたら誰かに起こされた。朦朧とした意識の中、侯爵本人が『すまない』と抱きしめた。だけどその目は全然優しくなくて、虐めた子を優しさで繋ぎ止めようとする仕草に吐き気がした。お父さんに言おう。もう嫌だって、もう無理だって、貴族なんて辞めて慎ましく暮らそうよ。私はお父さんがいればいいんだよ。
そう言おうとしたけど、塔から出た私にエドワードは言ったのだ。
『誰かに言えば、父親がどうなるか分かっているんだろうな──』と。
久しぶりに帰った我が家ではお父さんが待っていた。
お父さんの顔を見て泣き出しそうになったけど、『おかえり』『大丈夫だったか?』と言われて、私は笑顔を浮かべた。
『大丈夫だよ』
『何もなかったよ。ただ本を読んでただけ』
他に──他に何を言えばよかったんだろう。
お父さんに助けを求めたら、お父さんが殺されるかもしれない。
あの人たちならやる……侯爵家で染みついた恐怖は私に考える余裕を失わせた。
もう嫌なの。
痛いのも苦しいのも悲しいのも、お腹が空くのも嫌なの。
もう嫌なの。
冷たくて誰も来てくれない鉄格子の中に入るのは。
怖いの。苦しいの。もう二度とあんな思いしたくないの。
お母さんが居なくなって。
残されたたった一人の家族すら失うのは、もう嫌なの。
侯爵家から解放されて、仕事も楽になって。
もうあんな思いをする必要はないんだって、思ってたのに……。
◆◇◆◇
ここは、あの時の部屋じゃない。
私の部屋。慎ましくて何もない、ただの部屋だ。
そう分かっているのに、フラッシュバックして景色が重なる。
私に似合わぬ豪華な絨毯。魔法陣を描くときの机、使い古したペン。
お皿に置かれたケーキがカビの生えたパンに見えた。
窓から覗く景色が高塔から見えたものに変わって、つんとすえた匂いがする。
「いや、いや……いやぁぁああああ」
「ライラ!? どうしたんだい、ライラ!」
「──来ないでっ!」
頭を抱えて後ずさる私にリュカ様が手を伸ばす。
私は吐き気を堪えながら拒絶すると、リュカ様が止まった。
息を吐いて、吸って、何度か呼吸を繰り返した後に息をつく。
「来ないで、ください……お願いします……」
リュカ様に悪気がないのは分かっている。
私が露骨に避けていたのが悪いし、あの人が強硬手段に出るかもしれないって予想もできたはずだ。リュカ様はいつも強引だから。引っ込み思案の私には、それぐらいがいいのかもしれないけど、鉄格子だけはダメだった。
「怖いんです……もう嫌なんです……」
身体に染みついた空腹が、怖かった気持ちが蘇る。
誰を見ても何を見てもあの時の景色に見えてしまう。
どれだけ辛くても誰も助けてくれなかった、あの時と……
「ごめん」
突然、誰かに抱きしめられた。
ぎゅっとしているけど、ちょっと優しい抱きしめ方。
まるで兄が妹にそうするみたいな仕草に私は目を丸くした。
「リュカ、様……?」
「ごめん。ごめんね、ライラ」
「……なんで、謝るんですか」
「君に酷いことをした。ごめん」
「わ、たし」
ぎゅっとリュカ様の背中を握る。
くしゃりと顔が歪んで、視界が涙で滲んだ。
「……どうしたら、許してくれるかな」
こんなに弱々しいリュカ様は初めてだった。
私のほうが泣いてるのに、今にも泣きそうなリュカ様。
たぶん自分よりもひどい顔をしているこの人を見てると、ちょっとだけ落ち着いた。
鼻をすすった私は、ごしごしと涙を拭う。
「ケーキ……」
「え?」
「一ヶ月ケーキ食べ放題です」
リュカ様は戸惑いながらも頷いた。
「あ、あぁ。いいとも。用意させよう」
「私がケーキを食べている間、リュカ様は近付いて来ないでください」
「…………眺めるのは?」
「ダメ」
「カメラに撮るのは?」
「ダメ」
「君の残り香を嗅ぐのは?」
「きもちわるい」
「だよね」
リュカ様は力なく微笑んだ。
「……分かった。君がそれで許してくれるなら」
ゆっくりと身体を離す。
真正面から向かい合うと、リュカ様は寂しそうに言った。
「愚かな僕を許してくれるかい?」
「……ん」
「よかった」
ごめんね。とリュカ様は言った。
「君が見てくれないのが、寂しくて……暴走した」
「いえ、私も……その、避けてましたから」
「……どうして避けてたんだい?」
リュカ様が不思議そうに首をかしげている。
後ろにいたルネさんがそっとため息をついた。
私はそっぽ向く。
「……知りません。リュカ様の馬鹿」
「えぇ……」
普段はめちゃくちゃ攻めてくる癖に、こんな時は子犬みたい。
それがちょっぴりおかしくて、私は笑ってしまった。
どうしてかな。
この人に抱きしめられるのは、あんまり嫌じゃなかった。