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刺青  作者: 貴堂水樹
4/4

4.

 張り詰めていた室内の空気が緩み、目を開けることを許される。まだ私に覆い被さっていた舎川くんは、私の視線に気づくと頭を上げ、あどけない目をして微笑んだ。

「エロすぎですよ、係長」

 ティッシュで私の腹を拭いながら、舎川くんはまだ嬉しそうに笑っていた。私よりずっと若い彼だけれど、今の彼は若いというよりどこか幼い。

 かわいいな、と私は彼の頬を右手で包む。その手に彼は自らの手を重ね、指を絡めてきゅっと優しく握ってくれた。

「ありがとう、舎川くん。ちょっと元気出た」

 自分勝手に落ち込んでいた私に、彼はひとときの夢を見させてくれた。今だけは現実を忘れていい。私よりも若いくせに、私よりも寛容で柔軟な思考を持っている。

 舎川くんはくしゃりと笑い、「風呂場、こっちです」と言ってベッドと降りた。彼に続いて上体を起こすと、ちょうど目線が彼の腰の位置だった。

「ねぇ、舎川くん」

「はい」

「それ」

 振り返った舎川くんは、釘づけになっている私の視線の意味を悟り、「あぁ」と自らの左の腰に手を触れた。

「これですか」

「彫ったの?」

「えぇ。意外でした? こんなの隠してたなんて」

 いたずらっぽい目を向けられる。意外だったような気もするし、彼ならやりそうだと思わないでもなかった。

 ちょうど下着で隠れる位置に、翼を大きく広げた鳥のタトゥーが彫られていた。鷹か、鷲か。あるいは不死鳥、フェニックスか。五百円玉より一回り大きいくらいのサイズで、大空に向かって羽ばたく様子が躍動的に描かれている。

「連れが死んだんです。おれらが二十歳はたちの時に、バイク事故で」

 全裸で寝室の戸口に立ったまま、彼ははじめて私に学生時代の話を聞かせてくれた。

「大学で出会ったヤツなんですけど、そいつの影響でおれもバイクの免許を取って、ツーリングに行くようになりました。テレビで事故のニュースを見るたびに、お互い気をつけて乗らなきゃなって話してはいたんですけどね。心のどこかで、自分は大丈夫だって思う気持ちがあったんだと思います」

 戻らない時間を悔やむように、彼は慎重に言葉を選びながら語った。道幅の広い深夜の国道で、対抗右折車に撥ね飛ばされたのだという。

「そいつのことと、事故のことを忘れないために彫ったんです、このタトゥー。タカノって言うんですよ、そいつの名前。鳥の『鷹』に、野原の『野』で、鷹野たかの

「だから、鷹」

 うなずく彼に、私はベッドを降りて近づいた。さっきまで彼の手で覆われていた小さな鷹の輪郭を、今度は私の指でなぞる。

「大切な人だったんだね」

 違うな、と思い直し、言葉を変えた。

「今でも大切に想ってるんだ、彼女のこと」

 彼の呼吸が一瞬止まる。とうに冷えていた部屋の空気が一段と温度を下げた気がした。

 どうして、という顔で振り返られる。私は彼の背中に額を寄せ、締まったからだに腕を回した。

「わかるよ。きみは、私と同じだもん」

 彼は私と同じ。大切ななにかを失った過去に縛られ、現実を受け入れられずに生きている。

 左の腰。絶妙な位置に彫られた刺青いれずみ。首をめいっぱい捻っても容易には見られず、けれど確かにそこにある。普段は目を背けていられて、けれど存在は感じていたい。矛盾した気持ちと、二人で過ごしたかけがえのない時間を、彼は自らのからだに、痛みを伴って刻みつけた。

 二人一緒に浴室に入る。こすっても消えない小さな鷹を、私は丁寧に泡で包んだ。気持ちよさそうに羽ばたく鷹は、笑っているようにも、私をにらんでいるようにも見えた。

「どうして戻ってきたんですか」

 彼が貸してくれたTシャツに袖を通した私に、彼はおもむろに映画館での話の続きを始めた。

 ウエストのゆるすぎるスウェットパンツの裾を軽く引きずりながらリビングに戻る。ハンドバッグの奥でくしゃくしゃに丸まっている一枚のレシートを取り出し、軽く伸ばしてから彼に差し出した。

「あげる」

「なにこれ。福引き?」

「そう。来週末だって」

「やらないんですか、係長」

「やらない。嫌いだから」

「福引きが?」

 不思議そうな顔をする彼の視線を振り切って、私はソファに深く腰を沈めた。

「ハズレくじだって言われたの、別れた夫に」

 思い出すのも億劫なあの頃のこと。離婚のきっかけになったのは、夫の浮気が発覚したことだった。

「許すつもりだった。人間だもん、誰にだって間違いを犯すことはある。でも、夫は違った。私に許されようとは最初から思っていなくて、そもそも、よそに女を作ったのは、私と別れるためだった」

 最後まで、夫が私に頭を下げることはなかった。浮気について問いただした私に対し、あの人は「おまえが悪いんだぞ」と言った。

 ――つまらないんだよ、おまえとの生活は。こんなに冷め切った新婚生活があるかよ。会話は少ないし、俺には興味なさそうだし、生活スタイルは俺が全部おまえに合わせなくちゃならない。俺の意見は? 俺の生活スタイルは? 全部おまえの都合だ。やってられるか。

 謝罪の言葉を口にしたのは私のほうだった。自分のこれまでの生活を守ることばかりを考えていたせいで、いつの間にかあの人に必要以上のことを求め、あの人の気持ちを抑圧し、存在をないがしろにしていた。そんなつもりはなかったけれど、無意識のうちにあの人に窮屈な生活を強いていた。思い返せば、セックスも数えきれるほどしかしていない。いつか子どもも欲しいね、なんて話も確かにしていたはずなのに。

 ――美人だし、賢いことは認めるよ。けどな、奥さんとしては最低だ。最低だよ。とんだハズレくじを引かされたぜ、まったく。

 ハズレというあの人の言葉が、今でも耳にこびりついて離れない。いつまでも嫌な臭気を這わせ続ける生ゴミのような捨てゼリフを残して、あの人は私のもとを去った。数日後に郵送されてきた離婚届に判を押すまで丸三日。ほとんど眠れないまま仕事へ行き、家に帰るたびに泣いた。

「あの人のことを今でも好きでいるわけじゃない。だけど、どうしても認められないの。離婚した自分を。許せないのよ、なに一つまともに言い返せないまま、離婚届にサインをした私自身のことが」

 あの人と暮らした二年間は、今でも私の心に深く刻まれ、消えることはない。刺青と同じだ。簡単には拭い去れない。きれいには消えてくれず、跡が残る。

 結婚なんて、ただの契約だと思っていた。なにも期待せず、パートナーとの共同生活を穏やかに営んでいれば幸せで、きちんとお嫁に行けたという世間からの評価も得られる。私にとってはそれで十分だった。両親を喜ばすこともできた。

 甘かった。結婚はゴールじゃない。一度結ばれてしまえば、あとのことはどうとでもなると思っていた。どうにもならなかった。

「向いてないの、たぶん、私。結婚に。自己中ジコチューで、仕事も辞めたくなくて、自分の思いどおりに事が運ばないと納得できない。そりゃあつまらないよね、そんな女と一緒にいても。他人と上手に共同生活ができない人間なんだから。今になって気づいたところで、もう遅いけどさ」

 ハズレくじ。私を形容するのにこれ以上の言葉はないだろう。封を切るまでは大いに期待できる外観で、いざ中を見るとただの空洞。そんな自分を認められないところも私らしい。外見ばかり取り繕って、中身の詰まっていない失敗作。

 幼い頃も、思春期も、社会人になってからも、人間関係はうまくいっていると思っていた。それも幻想だったのだろう。私の幸福はいつだって、誰かの幸福を踏みつぶした上に築かれていた。周りの人たちが私にたくさん遠慮して、私が笑えるような環境をしつらえてきてくれたのだ。きっと私は、ずっと嫌われ者だった。私のことを今でも友達だと思ってくれている人が、この世界にいったい何人いるだろう。

 四人掛けダイニングセットの脇にたたずみ、黙って私の話を聞いてくれていた舎川くんがゆっくりと歩き出し、ソファに座る私の隣に静かに腰を下ろした。彼の重さで沈んだ分、私のいるほうの座面がわずかに浮く。

「映画みたいなものなんじゃないですか」

 ついていないテレビの液晶をじっと見つめ、舎川くんはいつもどおりの穏やかな口調で言った。

「アタリかハズレかなんて、その人の価値観でしかないでしょ。誰かにとってはハズレでも、別の誰かにとっては大アタリってこともある。それだけのことじゃないですか。一緒ですよ、恋愛も映画も。ある種のギャンブルみたいなものっていうか」

 ね、と言って、彼は私に笑いかけた。左手がすぅっと伸びてきて、前下がりのボブにしている私の髪を指で梳く。

 すっかり男の顔をして笑う彼から視線をはずし、やっぱりこの人は私に似ているなと思う。思考の方向性が同じだ。映画をギャンブルととらえたり、うまくいかないこの世界をどこか冷めた目で見ていたり。

 髪を撫でていた手が頭の後ろに添えられ、彼の顔が近づいてくる。寄せられた唇から伝わる熱に、私の唇は何度でも甘い痺れを覚え、境界線が曖昧になる。

 楕円に開いた暗闇の中で、ねっとりと舌が絡み合う。彼は私だけを求め、私もまた、彼だけを感じながらそそがれる愛情に身をゆだねた。

 二つの唇の間に距離ができる。互いに赤らんだ頬をして、彼は私を抱きしめた。

「一緒に、前に進みませんか」

 耳もとでささやかれたその言葉に、私たちが同じであることをいよいよ確信させられた。

 どうにもならない、できることなら切り捨ててしまいたい過去と現実を、一人でかかえて生きてきた。誰にすがることもなく、一人で背負う以外に選択肢を持とうとしなかった。

 彼の恋人がバイク事故で亡くなった、直接のきっかけを私は知らない。聞かなくても、彼の腰に刻まれた小さな鷹がすべてを物語っている。

 彼のために、私にできることがあるだろうか。寄り添い、隣を歩いていれば、深く傷ついた彼の心は救われるのか。

 強い後悔をかたどった鷹に、あるいは羽を休められる場所を与えることは。

 彼の背中に回した右手で、私は彼のTシャツを掴んだ。

「わがままだよ、私」

「上等です。だいたい、わがままじゃない人間なんていませんよ」

「そうかな」

「そうです。それに、自分で欠点に気づけてる人なら、まだ救いがある」

 彼のほうがうまく対応してくれる、ということか。生意気な。

 けれど、彼らしい。仕事でもそうだ。彼にはそういうところがある。

 周囲に合わせられる柔軟性、自分の主張を表に出さずにいられる強さを彼は持っている。そんな風だから彼は、自分でさえうまく見られない場所に、消えることのない痛みを飼い続けることを厭わない。

 いつか引きずり出してやろう。本当の彼を。一緒になりたいと言うのなら、隠してばかりいられては困る。

 こたえる代わりに、私は彼を抱きしめ返した。彼の両腕はもっと強く、きつく私を抱き寄せる。

 こうしているだけで、積年の呪縛が少しずつほどかれていくような気がした。私の中に静かに溶け込む彼の熱が、心とからだに深く刻みつけられた見えない刺青を薄くしていく。

 きれいには消えない。だから今は彼の色を何度も重ねて、記憶の奥底に眠らせよう。

 新しいタトゥーは、消したくないと思えたらいい。新しく刻まれる色を開いた心で楽しめたら、少しは楽になれるかもしれない。

「一緒に行きましょうね、来週」

 私を抱きしめる腕の力を緩めると、舎川くんは私の目を見て笑いかけた。私は反射的に眉根を寄せた。

「どこへ? 映画?」

「違いますよ。まぁ映画も観ればいいんですけど、福引きね、おれが行きたいのは」

 私は眉間のしわを深くし、彼をにらんだ。

「イヤ。舎川くん一人で行ってよ」

「なんでですか。係長がもらった福引き券ですよ」

「言ったでしょ。はずれるのがイヤなの」

「今さらだなぁ。映画だってアタリハズレのあるコンテンツなのに」

「映画は別。物語の世界に浸りたくて観るんだから」

 ブツブツと文句を垂れる私の隣で、舎川くんはもぞもぞと動いてソファに背を預け、横顔で小さく息をついた。

「いいじゃないですか、はずれたって。係長はもうすでに、おれっていうアタリくじを引いてるんだから」

 クサい。でも、舎川くんらしい。

 自分で言ったくせに照れ笑いする彼と一緒に私も笑った。別れた夫とこうして笑い合えた日がどれくらいあっただろう。

 コーヒー飲みます、と彼は私に尋ねてソファを離れた。

 手伝う、と答えてあとに続いた私を、彼は拒絶しなかった。


  了

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