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刺青  作者: 貴堂水樹
1/4

1.

 明るさを取り戻し、人の動き出す気配が波動のように伝わってくる劇場の中で、私はゆっくりと深呼吸した。二時間の映画を観たあとに訪れるこの絶妙な疲労感が好きで、離婚してからは毎週のように映画館に足を運んでいた。

「なんだろうなぁ」

 隣の席から、不服な色合いを帯びたつぶやきが聞こえてきた。

「最後のあれ、結局なんだったんだろ」

 場内の四分の三を埋めていた観客たちが次々と出入り口に向かって階段を降りていく。彼らの作り出す流れに逆らうように、とねがわくんだけが椅子に深く腰を沈めたまま、難しい顔をしてスクリーンをにらんでいた。

 すっかり身支度を済ませて立ち上がっていた私が「行こう」と声をかけると、彼はようやくスクリーンから私へと視線を動かした。いつもどこか涼しい顔をしているのに、今はめずらしく眉間にしわが寄っている。

「どう思います、係長」

「なにが」

「今の、意味わかりました?」

 映画の内容について、ということか。彼の納得していない顔につられ、私も曖昧に首を傾げることしかできなかった。

 公開前から話題になっていたアニメ映画だった。前作が興行収入一五〇億円を突破した映画監督の作品で、ミステリ要素の強いファンタジーだ。

 おもしろくなかったとは言わない。映像は美しかったし、キャラクター造形も巧みだった。

 ただ、ミステリならばお約束のスカッとする解決編は描かれていなかった。あのキャラクターは結局どうなったのか。消えたヒロインの生死は。極めつけに、次回作に続くと言いたげなラストワンシーン。

 ハッピーエンドだけが物語の終わり方ではない。そんなことはわかっている。映画とはそういうもので、作り手の思い入れが強ければ強いほど話が難しく、言葉足らずになっていき、結論や解釈を観客にゆだねる難解映画になりがちだ。今日観た作品はまさにそれで、一度観ただけではうまく理解できない部分がいくつもあった。結局誰も幸せになれなかったのか、それとも彼らが選んだそれぞれの道の先に幸せが待っているのか。どちらとも取れるし、どちらでもない解釈さえ生まれる余地のある終わり方は、ちょうど今の舎川くんのような、納得できない顔をして劇場を出る観客を生み出してしまっても仕方がない。

 一方で、それこそが封切り直後の映画を劇場で観ることの醍醐味でもある。万馬券ゲットを夢見て競馬場に通うギャンブラーのように、評価が出回る前の映画に期待を込めて金を払う映画ファンもまた、ある意味ではギャンブラーに近い存在だと私は思う。競馬と大きく違う点は、映画では勝ち負けという誰にでも共通する唯一無二の結果が得られるわけではなく、アタリかハズレかを決めるのが投資者自身であるというところだろう。今日観た映画は、舎川くんにとってはハズレ馬券だったらしい。そういうこともある。

「おれ、もう一回観てきます」

 劇場のロビーに出てくるなり、舎川くんは券売機の上部に設置された液晶パネルを見ながら言った。

「本気?」

「はい。あるじゃないですか、二回観なくちゃ理解できない映画って」

「そうだけど」

 彼は熱心にパネルを見て、「次は十八ろく時か」とつぶやいた。上映開始まで一時間以上ある。

「係長はもう観ないですよね」

 決めつけるような口調で言われる。私が映画を観たいかどうか、という意味の質問ではない。私の帰りたい時間を知っているからこその確認だった。私は彼と、映画を観ること以外にはなにもしない。

「うん、私は帰る」

「了解です。駐車場まで送ります」

「大丈夫。ここでいいよ」

「そうですか。それじゃ、また月曜日に」

 奥二重のシャープな目もとをくしゃっと和らげて笑うと、舎川くんは私に軽く手を振った。私も口角を上げて「お疲れ」と伝え、彼に背を向けて歩き出した。

 彼が追いかけてくることはない。だから彼とは、こうしたデートまがいの土曜を過ごすことができる。本気のデートは、この先誰ともするつもりはなかった。

 一階がスーパー、最上階が映画館とゲームセンターと家電量販店、間の階にアパレルショップや雑貨店などの専門店街が挟まっている形のショッピングモールがもっぱらの遊び場という時点で、ここが都会ではないことを肌で感じる。馬鹿にしているのではなく、この適度な田舎感が私にとっては居心地がよかった。私の生まれ育った街も郊外で、ここと似たような雰囲気だった。あえて違うところを挙げるとするなら、私の地元には地下鉄が走っていたことくらいだ。

 係長に昇進し、車がなければろくに生活もできない北陸の地に異動になって三年目。名前ばかりの係長が唯一の係員を従えることになってからは半年あまりが過ぎた。たった一人の私の部下は八つ年下のおとなしい塩顔男子で、出身地が名古屋であることと、映画鑑賞が趣味であることが私との共通点だった。

 なにがきっかけだったかは忘れてしまった。金曜ロードショーの話をしていたのだったか。どちらともなく映画が好きだと言い出して、私が毎週のように映画館に行くのだと話すと、彼は「へぇ」と物珍しそうに目を丸くした。

「ご主人と?」

「まさか。一人だよ」

「お一人で?」

 彼はさらに驚いた顔になった。当然だと思った。三十をとうに過ぎた女上司だ。家庭を持ち、仕事と両立させているのだと思われても不思議じゃない。

「私、バツイチなの。もう結婚は二度としないって決めてて」

 なにげなく告げたつもりだったのに、私の顔がよほど深刻そうだったのか、彼は「そうなんですか」としか言わなかった。余計な詮索はされず、ありがたかった。

 映画を観ていた二時間のうちに、ショッピングに訪れる客層が変化していた。ゲームセンターを中心にたくさん見かけた子どもの姿が今はまばらになっている。

 まっすぐ帰るつもりだったのに、いつの間にか二階と三階に広がる専門店街をふらついていた。走る子どもの姿がないだけで、通路がやたらと広く感じた。

 再来週の末、横浜で高校時代の同級生の結婚式がある。披露宴に呼ばれるのは三年ぶりだが、知り合いの招待客は以前参加した別の同級生の結婚式と同じメンツだ。誰も私の着ていたドレスなんて覚えちゃいないと頭ではわかっていても、ジャケットだけでも新調するか、なんて考えてしまうのはなぜだろう。仕事でも着られそうなもの、という条件を付して、一着見繕うことにした。

 秋冬物のシーズンだったこともあって、たくさんの素敵なジャケットに出会ってしまった。手持ちのドレスや仕事用のパンツとの組み合わせを考えていたらなかなか決まらず、同じ店を何度も出入りする羽目になった。

結局シンプルなベージュのジャケットに決め――袖を折り返すとすごくオシャレな裏地の柄が表に出るつくりが決め手になった――、クレジットカードで支払った。カードと一緒にレシートを差し出してくれた金髪の若い女性店員が「来週なんですけど、一階の特設コーナーで福引きイベントがありまして」とマニュアルどおりらしい案内を始めた。

「二千円のお買い物ごとに一回くじが引けるんです。ハズレなしの福引きなので、よかったらご参加ください」

 やけに長いレシートだなぁと思ったら、そういうことか。会計の記録だけでなく、福引きの引換券としての役割も担ったレシート。

 黙って受け取り、カードを丁寧に財布に収める。ひらひらと長いばかりのレシートは右手でぐちゃりと握りつぶし、乱雑にバッグの奥へとしまい込んだ。私の行為に金髪の店員さんはほんの少しだけ表情を変えたが、すぐに取り戻した営業スマイルで「ありがとうございました」と言った。その声になぜか別れた夫の声が重なり、嘲笑われているように聞こえた。

 ジャケットの入ったショップバッグを提げて店を出る。人の流れは不均衡で、私と同じ方向へ歩いている人の数が圧倒的に少なかった。

 波に逆らって歩く自分がみじめに思えてたまらなかった。私だって、みんなと同じように歩きたかった。愛を確かめ合った人と、普通の結婚をしたはずだった。

 前から近づいてきた大柄の男性と腕がぶつかる。相手に舌打ちをされたことで、ようやく自分が通路の真ん中で立ち止まってしまっていることに気がついた。

 あの人と別れて四年が経っても、別れ話を切り出された時のことを忘れることができずにいた。離婚だなんて、私にとっては寝耳に水だったのだ。あまりにも唐突で、それだけ私が盲目的に彼を想っていたことの証明だった。

 私たちの結婚生活は、私のひとりよがりな時間だった。なにがあっても、彼はいなくならないと思っていた。

 金沢に越してきて以来、あの人のことはあまり思い出さずに済んでいた。あの人と過ごした名古屋を離れ、慣れない日本海側での暮らしに没頭できたことがよかったらしい。

 それでも、こうしてふとした拍子に思い出してしまう日が来なくなることはなかった。しつこくぶり返す鈍い痛みが胸に走り、このまま家に帰ってもうまく眠れそうにない。

 鼻から大きく息を吸い、四階の映画館へ引き返す。なんでもいい。もう一本だけ映画を観てから帰ろう。

 彼を探すつもりはなかった。だというのに、よりによって入り口から見えるところに置かれたベンチに、見慣れた塩顔を見つけてしまった。

 黒いインナーにカーキのオーバーサイズシャツを羽織った私服姿。今ではめずらしくなくなったけれど、いつものスーツ姿とは雰囲気の違う舎川くんは、ゆったりと足を組んで座っていた。

 彼と私の間を、映画鑑賞客がひっきりなしに横切っていく。どうして私の気配に気づいたのか、熱心にスマートフォンを操作していたはずの彼は不意に視線を上げ、驚いた顔で立ち上がった。

「係長。どうしたんですか。忘れ物?」

 私は首を横に振った。

「やっぱり私も観ようかと思って、もう一本」

 彼と一緒に観るつもりはなかったし、同じ映画でなくてもよかった。とにかく映画の世界にどっぷりと浸かって、邪念を振り切りたいだけだった。

 少し離れた券売機の上部に目を向ける。彼がこれから二度目の鑑賞をする映画のタイトルを液晶パネルで探すと、表示は『△残りわずか』となっていた。

「係長」

 彼を残して券売機のほうへと歩き出そうとすると、私を呼び止める声がかかった。振り返った私に、彼は一枚のチケットを差し出した。

「これ、よかったら」

 さっき一緒に観た映画のタイトルが印字されたチケットだった。上映開始が十五分後のものをなぜか彼は二枚手に入れていて、そのうちの一枚を私に譲ってくれようとしていた。

「どうして」

 当然の疑問が湧き上がる。私がここへ戻ってくる確率の低さはよくわかっているはずなのに。

「深い意味はないんです」

 彼はほんの少しだけ頬を赤らませて答えた。

「係長が戻ってくるなんて全然思ってなかったですし。ただ、なんとなく……なんとなくですけど、係長以外の人に、隣に座られたくなくて」

 友達同士で映画を観に来たらしい女性二人が、私と舎川くんを交互に見ながらすぐ脇を通り過ぎていく。

 ようやく私は、彼がただ遠慮してくれていただけだということに気づかされた。「付き合うよ」。さっき彼がもう一度あの映画を観ると言った時、そう返してやるべきだった。

 どうせできやしないのに、後悔する気持ちだけは一人前だ。照れた顔で懸命に微笑む彼の手からチケットを受け取ると、嬉しそうに微笑む彼から、私は無言で目をそらした。

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