春湊に花 2
庭に明るい陽が降り注ぐ。庭に直接出られる大きな窓を開けて、早春の日射しが降るその縁に腰掛けてぼんやりと庭を眺めた。
前日に雨が降ったから、水やりはいらないだろう。枯れていたり、剪定を必要としていたりする植物もない。新入りの、毒草ではない植物は鉢植えにしたけれど、今のところ元気に背筋を伸ばしている。
――手持ち無沙汰になるのは嫌だ、いつも声がするから。
そう思ってしまったからか、やはり声はした。
「許せない」
どこから、と言いがたいところからする、女の声だ。この声がマルテの他に誰にも聞こえていないことを、もうマルテは熟知している。一年というのは、それを思い知るに十分すぎる時間だった。
「マルテ、そうでしょう」
「……黙って」
それでも、こうしてひとりでいる時は、つい返事をしてしまう。
「マルテ、悲しいでしょう。町があんなことになって」
「もう数年前のことよ、仕方ない」
「あなたはひとりきりにもなった。かわいそうなマルテ」
哀れむような声が、ひどく空虚に響いてくる。
「あなたの魔法で町を復興すれば、取り戻せるわ」
「わたしにそんな力はない」
何度となく同じ言葉を聞いているのに、返事を一向に変えられない。だから、返ってくる言葉もよく知っていた。
「あなたにはできるわ、愛しい子」
「――やめて!」
目をつむって、耳を塞いでも抵抗できないと分かっている。でも、そうせずにはいられなかった。どこを見ても存在しない人物に返答し、こころ乱されるのは、まさしく自分が狂っていると知ることのようだ。幻聴が聞こえるだけで十分に狂っているのに、どうしてもやり過ごせない。
「やめて、わたしは認めないわ……」
「マルテ」
明らかに異なる声が、はっきりと方向を持って聞こえて、マルテの思考がぴたりと止まる。
耳を押さえていた手を下げ、目を開いて、ぱっと顔を上げた。
「ヴァンジェロ!」
光降る庭の中央に、男が立っていた。マルテと同じ黒髪と黒目をしていて、ゆったりとした黒衣に身を包んだ、肌を除いて全身黒ずくめの男だった。
こわばった体から、力が抜けてゆくのが分かる。
「……来てくれたの」
「マルテ、声が聞こえていたのか」
指摘されたくないことを言われて、マルテは少し怯んだ。だがヴァンジェロに対して、言葉を濁すこともしたくなかった。
「……うん」
「気にすることはない」
「でも」
ヴァンジェロはマルテに近づくと、隣に腰掛けた。マルテのほうに顔を向けて言う。
「言っただろう、精霊……もっと言えば怨霊だと」
「ありがとう」
マルテはヴァンジェロのほうを見なかった。
「でも、いくらヴァンジェロの言葉でもそうは思えない」
膝の上で手を結び、マルテは固い声で続ける。
「もしも精霊の、怨霊の声だったとしたら……聞こえた時期がおかしいから」
ヴァンジェロは凪いだ表情でマルテを見ていた。
「声が聞こえて、もう一年にもなるけど。町が壊れたのはもっと前だもの」
「そうだな」
穏やかな声が相槌を打つ。
「だが、それは精霊の声だ。俺はそう思う」
ヴァンジェロは、声を否定しない。幻聴だとあざ笑うこともできるのに、そうもしなかった。いつか恐るおそる打ち明けたマルテに、「それは精霊の声だ」ときっぱり言ったのだ。信じることはできずとも、いくらか救いになった。
精霊の声を聞くことのできる人間は、古来よりいる。マルテも水弾きの魔法を使えるように、多少の魔法の才を受け継いでいる。魔法を操ることと精霊と交わることは深く関係すると言うから、魔法を使えるマルテが精霊の声を聞けても、おかしくはない。
水弾きは、この地方に――正しく言うなら津波で壊滅したあの町に――古くから伝わる魔法だ。マルテはその魔法を、母親から教わった。法規制が巡らされ、学校では実技が廃止され、大企業がパッケージ化したものばかりが出回るようになったのが現在の魔法というものだが、水弾きはそれでもなお細々と残る土着の魔法だった。
今や使い手は、どれだけ残っているだろう。なにせあの大波は多くのひと々を海の底へとさらった。マルテは、どうやって生き延びたのか思い出すこともできない。
数年前、津波の後。母親とともに、捨てられた町を出て、すぐ近くの大陸の町に移住した。母親はかねてからその町に庭を持っていた。それが、マルテが今ひとりで生きている場所だった。
わたしをひとりにしないで、母さん。
そう願ってしまったから、声が聞こえるようになったのだろうか? こんな、望みもしない言葉ばかりをかけてくる声が。
「ヴァンジェロも何か聞こえる?」
優しい視線が、どうしてそう問うのかと訊いている。
「だって、魔法も精霊も、嫌いなやつは多い。この時代にはもう邪魔なものだって。幻聴だから医者に行こうって言うほうが、よっぽど普通よ。それを精霊の声だなんて言うのは、ヴァンジェロも相当だと思う」
「そうか」
ヴァンジェロは口の端を少し上げた。
「そうだな……聞こえるよ」
「魔法も使える?」
「ああ、使える。いや……ずいぶん使ってないからな、どうだろう」
「ずいぶんって、どのくらい?」
「少なくともマルテが生まれるより前から」
マルテは目を瞬いた。
ヴァンジェロという人間は、杳として掴めないところがある。普段何をしているのか教えてくれたことはないし、この庭の外で会ったこともない。当然のように年齢も不詳だ。二十代そこそこのマルテよりは年上に見えるけれど、それは物腰の余裕からそう思えるだけで、容姿からは正直よく分からないとしか言えなかった。
冗談なのか本心なのか、問えば何かは答えてくれるだろう。
だがヴァンジェロは、深く踏み込ませないところのあるひとだった。その線引きを超えようとする時、ヴァンジェロに否定されたらと考えることが、マルテは怖かった。
母を失ったマルテの傍にただひとり、寄り添ってくれる存在なのだから。